しもばの放浪日記

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UK&アイルランド自転車紀行〜北アイルランド〜
スコットランド
↓2011.10.14
北アイルランド

John o'Groatsでの滞在を終えた後、電車で一気にスコットランドの首都エディンバラへ。ここからは進路を西へ取り、アイルランドを目指す。

今回、スコットランドでラグビーW杯の「スコットランド×イングランド戦」を観戦する機会に恵まれた。ニュージーランドで開催されている大会のため朝8時半に始まったこの試合。早くから開店したPUBには多くの客が訪れ、ビールをあおっていた。イングランドに対するライバル心をむき出しにして応援する人々。罵声を浴びせかけるおっさんたち。勝たねば敗退が決まってしまうという試合であったが、終盤までかろうじてリードを守っていたものの最後の最後で逆転を喫してしまった。

試合前に皆が大声で歌っていたスコットランド国歌。タイトルにある「スコットランドの花」とは、国花とされているアザミであり、代表チームのエンブレムともなっている。かつてヴァイキングが国に責めいったとき、夜襲をかけようとした敵がアザミの棘を踏み声を上げたために侵略を阻止できたという逸話から生まれたものだ。なんでも、スコットランドの悲劇の女王メアリー・スチュワートの命日には「メアリーの涙」と呼ばれる紫色のアザミが花を開くという伝説もあるらしい。

「自転車で旅しているのか!スコットランドの天気はひどいだろう」
尋ねてきた老夫婦に
「イングランドよりはマシだった」
と答えると
「人もnicerでしょ?」
という返事が返ってきた。

確かにイングランドよりもスコットランドを走っているときの方が人の温かみにふれる機会は多かった。だが、スコットランドの人々のイングランドに対する感情をどう理解したらいいのであろう。東南アジアで出会ったスコットランド人のおっさんは、酔っ払いながらイングランドの悪態をつきまくっていた。皆が皆そうだとまでは言わないが、多くの人がイングランドに何がしかの否定的な感情を抱いているのは疑いようのない事実にも思える。嫌悪感、劣等感、ライバル心、言葉で言い表せるものなのかはわからない。出身を尋ねると、当然彼らは「スコットランド」と答える。だが、イングランドと共に"United Kingdom"という一つの国家を形成しているのは疑いようのない事実な訳で、そこにまた、日本人には捉えがたい複雑な関係性が垣間見える。古都エディンバラで訪れたスコットランド国立博物館。スコットランド王家のコーナーで涙を流していた女性がいた。イングランドとスコットランドとの微妙な関係を象徴する一コマのようにも感じてしまったが、そもそもその女性がスコットランド人かどうかすらわからない。

フェリーで船を渡り、北アイルランドの首都ベルファストへ。この国で目の当たりにした光景にますます自分は混乱させられることとなった。


 

北アイルランドがアイルランドから離れてイギリスに属している背景には、プロテスタントとカトリックの複雑な対立構造がある。アイルランドの民族、ケルト人はもともとカトリック教徒であった。だが、イギリスからプロテスタントの人々が数多く入植。とりわけ北アイルランドには政府を始めとしてプロテスタント系住民が多く、アイルランドが独立した際にも北アイルランドはプロテスタント国家であるイギリスに属することを選んだ。おおざっぱに言うとこんな感じになるのだろうか。その結果、プロテスタント系住民はカトリック系住民よりも社会的に優遇されていたこともあり対立が深刻化。イギリスから分離しアイルランドの統一を目指すIRAなどがテロ活動を行い、対抗してプロテスタント側からも武装組織が生まれるなど混乱を極めていった。

1998年の和平合意によって表層的には平穏を取り戻したとされるベルファストであるが、住民衝突を防ぐ目的で作られたカトリック居住区とプロテスタント居住区を仕切る「ピース・ライン」と呼ばれる壁は今もなお存在し続けている。カトリック居住区側を歩くとアイルランド国旗が翻り、ハンガーストライキで獄死したIRAボランティアの若者の絵など、おびただしい数の壁画が立ち並んでいる。中にはパレスチナ問題におけるイスラエルを糾弾する内容のものも。一方、プロテスタント側を歩くとIRAのテロによって死んだ人々の肖像が描かれ、ユニオンジャックが翻る。

1972年1月30日。北アイルランドの都市デリーで"Bloody Sunday"と呼ばれる事件が起こった。カトリック住民のデモ行進中にイギリス軍が発砲、27名が銃撃された。事件のあった場所にはやはり重苦しい色合いの壁画が並ぶ。かつての城壁に書かれた"RELEASE"の文字。ドイツで起こった宗教改革がこの国に影響を及ぼし、アメリカの公民権運動が波及し差別撤廃の機運が高まり……様々の事象が綿密に 絡み合い複雑な状況が紡ぎ上げられてゆく。表現はおかしいかもしれないが、自分もやはり歴史の中に生きているのだと実感させられる。

情けないことに、自分はここに書いてきたような出来事をこの国に来るまでほとんど知ることがなかった。もちろん、アイルランドが南北に分裂していることは認識していたし、それに関する話を耳にすることもあった。だが、その背景にどんな理由が潜んでいるのか全く理解していなかったし、考えようともしなかった。よくもまあ今まで知らずに生きてこれたものだと思う。イスラエル/パレスチナやレバノン、旧ユーゴスラビア諸国など宗教・民族的対立で紛争が起こった(今もなお起こっている)地域を旅してきたが、同じことがこの国にも根を張っていた。自分が子供の頃から耳馴染んでいた『イギリス』という国は、かくも不安定な土台の上に存在していたのだ。

デリーで飲みに行ったPUBは、ナショナリスト(独立派)御用達といった雰囲気をかもし出していた。チェ・ゲバラの絵が壁を彩り、パレスチナや、スペインのバスクやカタルーニャなど独立意識の高い国々の旗が所狭しと飾られている。そういえば、パレスチナの分離壁にもカタルーニャ国旗が描かれていた。後に訪れることになるスペインのバスク地方では、BARで会った女性が
「大きな声では言えないけど私はフラメンコが好きで、それを学んでいるの」
と小声で語っていた。民族主義の強いバスク地方では、スペインの伝統文化を受け入れること自体、ある種のタブーなのであろうか。セルビア代表の試合でフーリガンが燃やしたアルバニア国旗。サラエヴォの民家に生々しく残る銃痕。レバノンのベイルートで教会を警備する兵士が「ピース・マン!」と送ってきたVサイン。中国人ではなく日本人だとわかった途端に笑顔になったウイグル人。肌の色を超え一体となったW杯の南アフリカ戦。様々な光景が脳裏によみがえる。

翌日、デリーの町のプロテスタント地区を歩く。プロテスタント教会前の通りは"London street"の名で呼ばれていた。歩みを進めると、道路の敷石までもがユニオンジャックの青、赤、白に塗られている。その先に立つイギリス国旗を見て慄然とした。その旗は、左右に真っ二つに断ち切られていたのだ。まるで戦時下かのような景色に言葉を失う。もちろんそれは、片側の人間が片側の主張のために立てたに過ぎない。だが、暗く沈んだ空にたなびくその異様は、世界に存在しつづけるであろう問題を沈黙の内に語り続けているようにも感じられるのだった。

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