シンガポール
↓03.04
マレーシア
↓03.18
タイ
この旅で初めての2回目の入国となったマレーシア、中華系住民が8割を占めるシンガポールと比べ、見た目でマレー系とわかる人たちがグッと増えた。首都であるクアラルンプールでは、民族衣装を着た女性が目立つ。同じイスラム国でも、中東の風景を想像したときのような、真っ黒な服に身を包んだ女性とは全く異なる。色とりどりな服飾文化を持つ中華系やインド系の住民が多いのも影響しているのだろうか。ものすごく色鮮やかで美しいのである。
東南アジアに戻ってきた。今まで自分が目を覆い続けてきた、克服しなければならない問題が一つ、あった。
ある本の中で、沢木耕太郎が自身の旅について、
「僕の自信は、どこに行って何を食べても美味いと感じられることだ」
というようなことを語っていた。似たような自信は自分にもある。『何を食っても美味い』というほどでは無いにしろ、少なくとも『とりあえず何食っても食える』という自信はある。
……ただ一つの例外、『ドリアン』を除いては。
それはおそらく5年以上前、バンコクのカオサンロードでの初体験。『果物の王様』などという言葉に魅せられて口にしたその果実。“臭いはキツイけど味はサイコー!”なんて話も聞いてたので期待に胸をときめかせていた。……しかし、まるで臭いどおりの味だったのだ。
「何がフルーツの王様だ!!魔王じゃねえかああああぁ!!!!」
そのへんの飢えた犬にやろうとした。犬も喰わなかった。
だが、しかし、やっぱり悔しいのである。自分が食えないものを美味い美味いと食っている人間がいることが。誰かが美味いと感じている以上、自分にもそれを感じる権利があるはずなのである。それを感じることで、人生においての喜びの契機は確実に増えるはずなのである。オーストラリアで、日本に半年住んでいたというイタリア人に出会った。そのイタリア人は、『納豆』が大好きだった。おそらく外国人が嫌いな日本の食べ物Best3に入るであろう『納豆』が、である。朝食時、「納豆食べたい納豆食べたい」と何度も口にしていた。納豆大好きな自分としては、やっぱりとても嬉しかった。多くの外国人が敬遠しているであろうドリアンを好きになれば、多くのドリアン好きな東南アジアの人たちも、やはり嬉しいのではあるまいか。食わねばならぬ。ここで食わねば、おそらくこの旅で二度とドリアンに出会う機会もあるまい。そうなれば、とても東南アジアに足を向けて寝られないのである。
そんな観念に襲われた。ある夜、ついに長らく口にしていなかったドリアンを購入した。あえてドリアン売りの屋台の脇のテーブルに腰を下ろす。ここでドリアンを残しては、ドリアン売りの兄ちゃんの自尊心を傷つけることになる。それだけは絶対に出来ない。自ら退路を断ったのである。
一口、口にした。
メメタァ。
深いところから蘇る感触の記憶。記憶の感触。と同時に、ニンニクのような、いや、腐ったニンニクのようなニオイが口じゅうに広がった。一瞬吐き気をもよおすがそれを抑えるべく二口目をかじりつく。ネチャリ、ヌメリ。手を止めてしまうともう続けられないような気がして、ひたすらむさぼりつく。はた目には、そうとうドリアン大好きっ子に映っていたに違いない。
……だが、不思議なことに、食べ続けるにつれ、初めはあんなに抵抗感のあった臭いがほとんど気にならなくなってきた。ていうかマヒしてるんだな、もはや。次第に種にこびりついた細かな部分まで剥ぎ取りだした。最終的には何故だか手についた果実のかけらもペロペロなめる始末。きっとこれを繰り返せば美味いと感じられるに違いない。なんというか、自己暗示への入り口のようなものが垣間見えた気がする。
ただし、問題なのは値段なのだ。なんだかわからないが一応どうやら高級フルーツというやつらしい。超高級というほどではないにしろ、手のひらサイズの一パックで、下手したらいつも食べてる屋台飯の倍近くの値段がするのである。逆に言えば、特に高級な(または新鮮な)ドリアンを食べれば、一気に目醒める可能性もある。ウニ嫌いな人間が、北海道のウニを食べてウニの美味さに気付くようなもので。
今回の結論としては、
『食えないことはないけど同じ値段出すならもっと美味いもん食うわ』
というところだろうか。それだけでも大きな一歩だ。