しもばの放浪日記

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グッドモーニング、ベトナム


ベトナムでは判を押したように毎朝サンドイッチを食べている。元フランス領だったこの国ではフランス文化が浸透していて、パンがとてもおいしいのだ。フランスパンを切ってその中にハムや肉や野菜などを挟む。ベトナムらしくもちろんパクチーなど香草系も。味付けもチリソースや醤油、塩胡椒をふっただけのものなど色々だ。

もう一つお気に入りが「ブンチャー」という食べ物。フォーが「ベトナム風うどん」だったらこちらは「ベトナム風つけ麺」といった代物で、麺、肉、付け合わせの野菜を、ちょっと酸味の効いたスープに混ぜて食べる。この肉というのが炭火で焼いたつくね風の肉で、スープが染み込んでめちゃくちゃ美味い。

自分にとっては約8年ぶりのベトナム入り。初めて行った海外(ガキの頃に家族旅行で行ったサイパンは除く)だけに思い入れも強い。
「あの旅行が無ければ今こうしていることも無かったのかも」
なんて思考回路が働きがちな性格故にその思いは深まるばかり。

首都であるハノイに入ったとき、その変わりぶりに驚いた。何と言っても外国人旅行者が多い。立ち並ぶレストランやカフェ。道を埋め尽くすスクーター。ベトナム最大の都市ホーチミン市と比べてどちらかと言えば地味な印象だっただけに、そのホーチミンがそのまんま引っ越してきたような光景にびっくり。

交通量が多いのはこの国この都市に限ったことじゃないけれど、ハノイの町の旧市街では道が入り組んでいて道幅も狭い。そこを大量のスクーターがひっきりなしに走っているもんだから、道を渡るのもなかなか厄介だ。しかし、これも何日かいるとコツが掴めてくる。一番大切なのは、一度渡り始めたら決して歩みを止めないこと。向こうはこっちの動きを計算しながら勝手に避けていく。急に立ち止まってはかえって危険なのだ。こちらに向かって迫って来ようがクラクションを鳴らされようが、あくまでも悠然と泰然と歩くべし、である。

こういった些細なことの一つ一つでその土地に少しでも溶け込んだ気分になれるのが旅の面白いところ。ちなみにベトナム入りしてからというもの、しょっちゅう
「Are you Tibetan?(チベット人ですか?)」
と聞かれる。髪型(ボウズ)のせいもあるとはいえ、そもそもチベット人旅行者ってそんなに多いのか!?最終的にベトナムで知り合った日本人の友人たちからも「チベタン」のあだ名で呼ばれるようになったとさ、むむ。

ヨー!
メコン川に面したチャウドックというベトナムの町。昼間、市場近くを歩いていると、
「ヨー!ヨー!」
という声が聞こえてきた。見ると道端で飲んでいる酔っ払いのおっさんらが手招いている。「ヨー!」というのは「乾杯」の意味。そういうことなら遠慮なく参加させてもらおう。

おっさんらは英語が使えない。なのでコミュニケーションの手段は一にも二にも、
『酒を飲む』
これである。

おちょこと同じくらいのサイズのグラスになみなみ注いでは、
「ヨー!」
と手渡してくる。どうやら半分飲んではそのグラスを他人に渡すシステムらしい。こちらも
「ヨーヨー」
と言い飲み干す。また注がれる。半分飲む。渡す。渡される。
「ヨー」
「ヨーヨー!」
「ヨーヨヨー」
「ヨーヨーヨー」
「ヨー!」
繰り返し。おかげで昼間から大いに酔っ払いなのだ。



そんな感じでベトナムでも、例えば前日に飲み屋で出会ったベトナム人の家に遊びに行ったりと、なかなか楽しい日々を過ごした。そこでも大いに飲んだり食事をご馳走になったり。うーん、こういうこと続けてるとそのうち痛い目にも合いそうだけど…。でも、信用できる人かそうでないかの判断は自分的にはしているつもり。だってドンさんというそのベトナム人、日本食レストランで働いていたらしくなかなか達者な日本語を使うのだ。少なくとも、「テンプラモリアワセ」や「コイクチショウユ」について語るベトナム人に悪い人はいない。



ベトナムで出会った日本人たちは口々に「この国はあまり好きじゃない」と言っていたけれど、自分としては生まれて初めて訪れた異国ということで、やはりどこかで贔屓目があるらしい。少しくらいふっかけてきたりしても愛嬌にすら感じたりするのだ(もちろん、その場合は断固戦うが)。たしかに、友人の中にはかなりの額をボッタくられた者もいる。そういう人にとっては悪印象も仕方ないとは思うが…。

チャウドックからはボートでメコン川を遡りカンボジアに入国した。3年ぶりのアンコール。いざ。
月が言い訳をしてる
アンコールワット観光の拠点となる町、シェムリアップ。思えば、今までに海外で何度も訪れた場所なんてバンコクのカオサン通り(安宿街)くらいのもので、今回の旅だと、ハノイ、ホーチミンに続いて3都市目の再訪。ハノイとホーチミンはほとんど観光してないことを考えると、観光として再び訪れた地はここシェムリアップが初めてなのだ。

レンタサイクルをこぎこぎ、アンコール観光。まず向かったのはアンコール・トムの中にある『バイヨン』という遺跡。前述のとおりアンコールに訪れるのは2回目。
(ふふん、俺は常連なんだぜ)
そういった気持ちが心のどこかにあったことは否定できない。門の前で記念撮影している欧米人を横目にすーっと通り過ぎるのだ。

たどり着いたバイヨンでは座り込み景色を眺めながら日記を書いた。ちょいとぐるっと散策して、うんうん、なるほど、こんなもんか、うむ、てな感じ。さーっと流し見て、よし、それじゃー次の遺跡と、バイヨンを出てくるりと振り返ったときに足が止まった。

ゴツゴツした威容。塔のひとつひとつに彫られた顔、顔、顔。
……やっばすげえ。
わかったような気になって、自分は何もわかっちゃいなかったのだ。そう実感し、踵を返した。それから30分、ずっと眼前の景色を眺めていた。



日が暮れ始めてきたので、アンコールワットへと移動。
『アンコールワットに昇る満月を見る』
これが本日のメインテーマだ。が、あいにく東の空には雲が立ち込めている。もしかしたら一瞬雲の隙間から月が見えるかも知れぬ。その一念で待ち構えるも叶わず。無念。ライトアップされたアンコールワットはそれはそれで綺麗だった。

自転車に乗り、帰ろうとした途端、雨が降り始めた。トゥクトゥクの兄ちゃんが
「2ドルで自転車ごと宿まで送ってやる」
と言ってくれたにもかかわらず、
「1ドルなら乗る」
ついついいつものクセで値切り交渉をしてしまった。交渉不成立。いーよ、チャリで帰るから。こぎ始めたところで完全なるスコール。バケツをひっくり返したようなとはこのことか。

とても自転車をこげる状態ではない。木の下で雨宿り。
(あー、2ドルで乗ってりゃ良かった…)
思いながら空を眺める。もうすでに日暮れて真っ暗。いつになったら上がるのやら。現地の物売りの少年も木の下に駆け込んできた。
「いやー、ひどい雨だねー」
日本語で話し掛ける。言葉は通じない。少年が落ちていたビニール袋を拾い、バサバサと水気を切り、自分が抱えていたバッグにすっぽりかぶせてくれた。ありがとー、びしょ濡れで困ってたんだよー。言葉は通じない。お互いはにかみながら雨が上がるのを待った。

雨は上がり、宿への道をひた走る。すると目の前の雲がするすると晴れ、月が顔を出し始めた。
(いまさら出てきやがって…)
こみ上げる嬉しさを隠しながら、満月に向かって一瞥をくれてやった。

その名もカオサンストリート


カオサン通りといえば…
1.安宿
2.沈没
3.昼間からビール
(ダメ)旅人の集う場所、カオサンストリートへよーこそー。

旅をする目的は人それぞれ異なる。同じものを見て何を感じるか、当然それも人それぞれ違う。

カンボジアのシェムリアップからバンコクへやってきた。たどり着いた夜のバンコクは、国王誕生日の直後だからかクリスマスが近いせいなのか、たくさんの電飾に彩られきらびやかだった。そんな景色に心の準備が出来ていなかったせいもあって、自分が妙にその世界から遊離したように感じてしまった。そして、ひさしぶりに降り立ったカオサン通りの姿にも、げんなりした気持ちを抱いてしまったのだ。

夕方に街を歩いていると、物売りのおばちゃんが二人、髪を引っつかみながら喧嘩をしていた。とりまく野次馬たちの中で、欧米人たちが誰ひとり止めようとせず、笑いながら写真を撮っているのが目に入った。
(こいつら、アジアを見世物だと思いやがって)
なんだかものすごくむかっ腹が立った。

夜中は通りにオカマが増える。見るからにそうとわかる奴もいれば、見た目じゃなかなか判別できないときもある。一度、宿への帰り際につかまった。第一声、
「ワタシ、オンナ」
一言目でそんなことを言う女はいない。そして、ふりほどこうにも見た目に反して力が強い。そうなると頭のどこかで混乱が生じるらしい。
「Sorry.Sorry.」
と、ついついなだめてしまった。

そんなカオサン通りの唯一、そして最大の魅力はやはり「出会い」であると思う。東南アジアのプラットホームだけに、ベトナムやカンボジアで出会った人々と一日一度は遭遇するのだ。と同時に、新たな出会いも広がっていく。気付けば毎日飲みまくり。1日あたり1000バーツ(3000円)。当初の『げんなり』はどこへやら。いやはや恐ろしいものである。


シェムリアップ(カンボジア)の夕暮れ。
常夏クリスマス
面白いもので、この時期になると、一人旅している連中の間でも、
「クリスマスはどこで過ごす?」
なんて会話がなされるようになる。どんどん季節に対する感覚を失っていく旅人たちにとっても、数ある行事の中で、やはり“クリスマス”と“年越し”は別格であるらしい。

そんな中、自分がクリスマスを過ごす地として選んだのは、タイの東、カンボジアとの国境近くの、チャーン島という島だ。とりわけリゾートがしたい訳じゃない。ただ少しばかり、バンコクの喧騒に疲れ気味だったのだ。どうやらそこまでリゾート開発された島でもないらしいし、のんびり癒されるにはちょうど良さそうだと思ったのだ。

などと、自由に旅することができる身ながら、自らバンコクに長居をし、
“疲れたので癒されたい”
身勝手もはなはだしい。そう思いながらも、島のメインビーチから離れた、目の前に海のある、逆に言えば海以外には何もない静かなバンガローに滞在を決めた。



やはり行事というものは、季節と共に脳内に刷り込まれているものらしい。この常夏の地でいくらクリスマスを叫ばれても、どうにも実感が湧かないのが現状だ。それでも通りのカフェから“Happy Xmas”が流れてきたりすると、また違った趣きがあって面白い。寒い中で聴くとしんしんと身に染み入るように感じ、照りつける太陽の下だとよりHappy度が増すように感じるのは、日本的な季節感の刷り込みゆえ、なのかもしれない。

しかしこの常夏の地にも、やはり冬というものはあるようで、日が沈むと比較的涼しく、夜は羽織るものがないと肌寒いほど。この国ではこの国なりのクリスマスの、そしてその季節の感じ方があるのだろう。自分には決して感じ取れないそれをこの国の人たちはきっと感じているのだろうと思うと、なんだかとてもうらやましい気がしてくる。

大雨が降っているかのような木々のざわめきの中で眠り、波の音と共に目覚めるこの地で。
Merry X'mas!

Let's get together and feel alright
3年前にカオサン通りで知り合った友人と、カオサン通りで待ち合わせ。あのときの思い出が今回の旅のきっかけの一つであり、旅を続ける上での原動力ともなっているのは紛れもない。話し掛けてくれてありがとう。

クリスマスを過ごしたチャン島のバンガロー。ボブ・マーリーが流れるたびに、一つの風景を思い出した。この旅の序盤、万里の長城で野宿したときにも、同じくボブ・マーリーを聴いたのだった。

旅立ち前に餞別でもらったCDを聴きながら、細い月が海に沈むのを眺めた。
『ナイトクルージング』
目の前の光景と曲とのあまりの一体感に、一瞬時が止まった。

旅に出てからというもの、自分でも驚くほど頻繁に日本の友人たちが夢に出てくる。しょっちゅう一緒に遊んでいたあいつから、ほとんど忘れかけていたあの人まで、人生のオールスター大集合といった感じだ。まだ旅立ってからたったの2ヶ月ながらも懐かしく感じると同時に、自分の抱えているある種の恐怖感が頭をよぎってしまう。

例えば仕事だとか、この先の人生に対する不安はあまり無い。それは帰国した先にあることだと割り切ることができるから。不安を感じるのはそれまでの時間。この旅に出ている間に友人たちと過ごせなかった時間。旅を通しての体験よりも、その失われた時間に対して後悔するのではないかという恐怖が心の片隅にある。

たぶんそれは、ホームシックとかでもなくて、大都市にいると誰もいない静かな場所に行きたくなり、静かな孤島に行くと人恋しくなるように、結局は無いものねだりで、多分に本能的なものなのだと思う。そして、そういった恐怖を抱えながら旅ができるのは、もしかするととても幸せなことなのかもしれない。

曲が終わり、次の曲が始まった。
『この次はいつだろう
 間に合えば何処へ飛んでゆくの
 ハローグッバイ ハローグッバイ ハローグッバイ』

良いお年を。


自分じゃなくてタイ人のおっさんですよ…念のため。
from Green to the Rainbow!
年越しはタイのクラビーにて。“Green Spirit”というトランスパーティー。野外フェスのような形での年越しは夢だったのでちょっぴり感激。が、やはり暑い地での年越しは全く実感が沸かない。そして例によって酔っ払ってベロベロ。年明けて早々に床についた。年越しにテント!キャンプ!餞別に頂いたレジャーシートもようやく使うことが出来た。ありがとう。


元旦の朝。

その足で、同じくタイ南部にて行われているレインボーギャザリングへ。これは、世界中からヒッピーたちが集い、一ヶ月間共同生活を行うというイベント。定義が合っているかどうかわからないけど自分としてはとりあえずそのように解釈していた。
「どうせほとんどファッションでヒッピーを気取ってる奴らが集まってるんじゃねーの?」
正直、そう思っていた。しかし、想像していた以上の世界がそこにあった。

会場は、ラノーンという町から車で1時間くらいの浜にある。正確には、車で1時間くらいの浜からさらに浜辺を歩くこととなる。南北に岩場があり満潮時には歩いて超えるのも困難で、海の逆側には山がある。山にはトラやキングコブラも出るらしい。

「母なる大地が瀕死の病にかかり動物や植物たちが姿を消し始めたとき、人種も信仰も肌の色も異なる虹の戦士が世界各地から集まって大地を再び緑に潤すための仕事を始める」

こういったネイティブアメリカンの伝説から端を発したイベント。会場には全く電気が通っていない。生まれて初めて、月明かりのみから生じた自分の影を見た。

たどり着いたとき、あまりのピースフルさに驚愕した。初めて出会った人々がハグで迎えてくれる。すれ違う人々から次々に“Welcome Home!”という声が掛かる。Welcome Homeソングを歌っているおっちゃんもいる。

食事の前には、焚き火を中心にみんなで手をつなぎ、輪になって歌を歌った後、皆で「オゥーーー」という声を出し共鳴させる儀式があった。このサークルになるという行為がこのイベントを象徴している。自分が発した声が、他の人々の中を通り、それぞれの声を伴って、また自分自身に帰ってくる。

この場には、リーダーや代表がいるわけじゃない。トイレの穴を掘るのも、洗い場から流れる生ゴミが川に流れないようにするのも、皆で知恵を出し合って解決策を練る。毎日の食事を作るのも、有志が集う形を取っている。日本人みんなで朝食を作ったときもあった。献立はわかめご飯とお味噌汁。外国人から“Thank you for the food!!”の大喝采を受けた。自分は包丁とか使えないのでもっぱら薪拾いだったけど、これは本当に嬉しかった。

人々がそれぞれ互いのことを思いやり、互いが互いを尊重し、互いが互いを助け合うことによってこの場が存在していた。まさにサークル。この、自分に欠けている意識が宿っている場で、色々と思いを巡らすのは本当に貴重な体験だった。街に帰ってきてからというものなにやら少し違和感を感じる。あの場にいたときには人とすれ違う度に挨拶や笑顔を交わしていたのだ。

食事を運んできてくれたときに“Thank you”と声を掛けたら、
“Thank you for eating”
という言葉が返ってきた。
「食べてくれてありがとう」
なんて素敵な言葉なのだろうと思った。
陽光のくに
タイも南部に差し掛かると、ムスリムの人が増え、バスの窓の外にもときたまモスクが見えるようになった。南にマレーシアが近づいてきている証拠だ。

というわけで、マレーシアの地に初上陸。人生初のイスラム教国。思えばこのところ、ベトナム、カンボジア、タイと、今まで行ったことある国ばかり周っていた。初めて入国する国は、この旅で中国に続いて2カ国目。中国に入るときはフェリーで知り合った連中と一緒だったので、一人きりで入国するのはこの旅はじめてのことだ。

ガイドブックも持っていないので、初めはどうにも勝手がわからずちょっぴり不安だった。高いんだか安いんだか、ボラれてるんだかそうでないのか、物価が全くわからないのだ。そういうときには商店へGo!
コーラ:1.50RM(リンギット)
なるほど、タイが15バーツだったから、ということは、
1RM = 10バーツ = 30円くらいか。
などと謎を解明していくのである。この作業が結構楽しい。あくまでも、コーラの物価がタイと変わらないというのを前提での計算なので間違いの場合もあるけれど、まあそれに比した他の値段の目安くらいはわかる。

マレーシアの第一印象は、
“陽光のくに”
といった感じ。陽射しがまぶしい。が、西側は乾季なせいかそれほど暑いという印象でもない。治安も良さそう。そして、人がとても親切だ。

人々の生活には裕福さというか、ゆとりを感じる。ベトナムやカンボジアの人たちに
「この国は貧しいから…」
なんて言われるたびに、
「いや、でも日本は仕事とかVery hardだから、決してGoodとも言い切れないよ」
といった言葉を返していたのだが、当事国の人々からしたら戯れ言に過ぎないのかもしれない。などと、このマレーシアのような国に来ると考えてしまう。この国の人々のやさしさも、豊かさというものが一つ、背景にあるのかな、なんて思わざるを得ない。もちろん、貧しい国にも素敵な人や優しい人はたくさんいるのだけれど、それとはまた別の意味で、だ。

今は見るものすべてが楽しい。長居しないよう気を付けねば。

がりれおふぃがろ。
「日本人旅行者は多いけど、中国人の旅行者ってあまり会わないよね」
中国行きのフェリーの中でそんな話題になった。フェリーで親しくなった中国人の女の子は笑ってこう言った。
「中国人は旅行するよりも住み着いちゃうから」

なるほど、確かにどこの国にも中国系移民はいるが、マレーシアは特にその傾向が健著なようだ。どうやら人口の3割は中国系移民らしい。街を歩いていても中国語の看板が立ち並んでいて、一瞬中国に帰ってきたのかと錯覚するほど。そしてその錯覚を否定するべく暑い陽射しが降り注ぐ。夏色の青空を見ることでマレーシアにいるんだと自分に言い聞かす。そんな具合だ。



当然、飯が美味い。中国系の数ほどではないけれどインド人(ほんとは「インド系マレー人」だが面倒くさいので省略)もちらほらいる。なので毎日、中華かカレーを食っている。

ある日、インド人の経営している屋台で「テー」(あまーいミルクティー。インドで言うチャイ)を注文した。それを飲みながら他の席で談笑しているインド人たちを眺めていたら、当たり前のことながら、
「ああ、自分の知らないこの世界にもたしかに人々の生活が存在しているんだなぁ」
なんて感じて、微笑まくて愛おしくなるような、反面ちょっぴり物悲しくて泣きたくなるような、不思議な感情に襲われた。その状況が、すべての人々が他人には完全には理解できない自分の世界を抱えていて、その中で生きていかねばならないことを証明しているように思えたのだ。そしてその事実は、やっぱり愛おしくもあり狂おしくもある。

などと、自分でも気付かぬうちに何かの歌詞や小説の一説をパクっているような気もするが、首都クアラルンプールでは韓国人の女の子と知り合った。彼女は子供の頃に3、4年ほど日本に住んでいて日本語がペラペラ。自分としても1週間ぶりに話す日本語が楽しくて、2時間近くも語り合ってしまった。

テーマは、『旅と恋愛における倦怠感の相似について』…なんのこっちゃい。
彼女は大学を休学しアルバイトでお金を貯め、長期旅行に出た。はじめのうちは楽しくってしょうがなかったのに、半年近く経つ今では見るものすべてに新鮮味を失い、最近では韓国に帰ることばかり考えてしまう。まあそんな話だ。自分にはまだそこまでの波は来ていないけれど、長期旅行者にはすべからく似たような感情は訪れるらしい。「深夜特急」しかり。

違いがあるとすれば、旅には必ず終わりがあることだろうか。でも、終わりのない恋愛なんてあるんだろうか。…ようわからん。旅そのものを仕事にすることが「結婚」なんだと考えればひどく納得がいくような気もするし、そうすると仕事と恋愛もまた似ているような気もする。

…ようわからん。

その日の夜は屋根裏のねずみがやたらとうるさかった。と思ったら、フロントに置いてある扇風機のきしむ音だった。きっと世の中には、大いなる誤解がたくさん存在しているのだろう、と思った。
日本文化


まだ東南アジアやそこらだからかもしれないが、どこの国に行っても日本語って有名で驚くことが多い。「ありがとう」はたいがいの店で通用するし、中には
「ジコショーカイ、サセテ、イタダキマス!ワタシノ、ナマエワ…!!」
なんてネタで覚えてる奴もいて爆笑した。

宿で会ったアメリカ人には
「Do you like baseball?」
と聞かれた。Yes!と答えると、今度は
「You like Ichiro??」
なんだろう、もしやWBCで日本が優勝したのを根に持ってるのではあるまいか。
「You don't like?」
「No!No!I'm from Seattle!He is a hero!!」
だって。こういうときは感激ものだ。よくよく考えたらWBCでアメリカが敗退したのも日本のせいじゃないし、そもそもアメリカ人はWBC自体にたいしてこだわってないような気もする。

クアラルンプールでは、Japanese Drumのライブに行ってきた。日本人だということで、同宿の外国人が誘ってくれたのだ。しかも無料!ラッキー!いやなんとも、ものすごく面白かった。大興奮!!太鼓ってすげえ。朝霧JAMの2日目のトップは2年連続で地元の大太鼓だったのに、2回とも見ていないことにものすごく後悔した。毎年佐渡でやっている『EARTH CELEBRATION』も面白そう。あ、でもEZOと日程がかぶってるんだよなぁ。つーかそもそも俺は日本にいないっつーの。

マレーシアでの太鼓ライブ、何が嬉しかったかって、やっぱり日本独自の文化を他の国の人たちが楽しんでくれていること。なんだか不思議と妙に誇らしい気分になったりして。民族意識とは面白いものである。


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