しもばの放浪日記

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飛んでイスタンブール
南アフリカ
↓07.31
トルコ


ワールドカップが終わってからというもの、すっかり抜け殻状態となってしまった。思えばこのW杯こそが、ここ数年の自分の旅における最大の目的地であった。南アフリカという地は、地理的にもゴールとして十分な貫禄を持つ。だからこそ、だろうか。そこから先の進むべき目標を見失ってしまった。

ここからは久しぶりに空路を取ることは決めていた。このまま東アフリカを北上するというルートもあるにはあったが、西側を下ってきた身としてはそれ以上の魅力を感じない。飛行機を使うと決めた以上、どんな展開も有り得る。再びオーストラリアというのも可能ではある。その気になれば日本にだって帰れてしまう。このままケープタウンで働く、などという選択肢まであった。
『南米に飛ぶ』
数ある選択肢の中でも、それが最も妥当なものであったかもしれない。だが、半年以上もアフリカにいるので少しばかり肩の力を抜きたい。更に寒いのもちと辛い。何より、南米から北米に上がっていくというのが自分の中ではどうしてもピンと来ないというのがあった。出来ればアラスカあたりから南米のウシュアイアまで下りたい。アフリカ大陸同様に先っちょっぽい形状をしている分、その方が達成感が得られそうな気がするのだ。しかしながら南アからアラスカまではあまりに遠い。再びヨーロッパを経由するべきだろうか。中東にも行っていないのでカイロに飛ぶのもありかもしれない。いやいや、時間をかけずにとっととドイツあたりに飛ぶべきか。そのあたりの二択で悩んでいたのにもかかわらず、ネット屋で予約したのは何故かイスタンブール行きの航空券であった。まったくインスピレーションとしか言いようがない。

オーストラリアを去るとき以来、実に2年半ぶりとなる飛行機での移動。このような形でイスタンブールという地に降り立つことになるとは、全くの想定外であった。アジアを横断してヨーロッパの入り口へ。またはヨーロッパからアジアの玄関口へ。どちらの場合も、きっとそれなりの感慨を得ることができたに違いない。もし、これがかつて滞在した町(例えばカイロなど)であれば、『懐かしさ』という感情で誤魔化せたのかもしれない。道に黒人が歩いていない。町にモスクが立ち並ぶ光景も久しぶりだ。モスクの形状も、自分が今まで訪れた国とは違う。だが、空路で入ったこの町に自分の心が馴染むにはやはり時間を必要とした。
「暑い」
それだけが明確な差異として感じられた。それこそが、わずか一日の内にものすごい距離を移動したことの何よりの証明でもあった。


東欧突入
トルコ
↓08.25
ブルガリア
↓09.09
ルーマニア


一週間もするとイスタンブールの町にも慣れてきた。他の中東の国々を経由してくるとあまりの欧州色に驚く、という話を聞いてはいたが、一方でもちろんイスラムならではの光景にも出会うことができる。朝5時にアザーンの声が鳴り響く。モスクへ早朝散歩に行くと礼拝にやってくる人々の姿が。イスタンブール滞在中にラマダンに突入した。観光客も多いこの町、昼間でも堂々と飲食店が営業している。確かに他のイスラムの国々に比べればあまりにも緩いと言えるだろう。だが、それでもやはり敬虔な人は敬虔なのだ。夕方、モスクの近くを通り掛かると人々がピクニック気分でお弁当を広げていた。その姿を眺めていたらスイカを一切れくれた。皆と共にラマダン明けのアザーンの音を待つ。何だかんだ言ってイランあたりでもラマダンの夜はお祭りだったのを思い出した。

ブルガリア。初の東欧突入である。旧共産圏。急に中央アジアのキルギスあたりのような景色が広がっていたのは実に興味深かった。曲線を排した威圧的な建物が並ぶ。道をおんぼろのトラムが走る。最も圧巻だったのはヴェリコ・タルノヴォという古都にある通称『UFO』と呼ばれる建物。社会主義時代のプロパガンダ的施設が山の頂に建てられていたのだが、今は廃虚となったその内部に侵入できるのである。中へ入ると血の跡のように赤いシミが点在している。それらは全て赤い布であった。かつては床中にレッドカーペットが敷き詰められていた、その残骸だったのだ。時代が近いからこそだろうか。古代遺跡などを見るよりもずっと『一つの時代が終わった』という実感を肌で感じられるような気がした。

ルーマニアの首都ブカレスト。土曜日の公園に立ち寄ると、オーケストラの生演奏をしていた。老人達がベンチに並んで耳を傾けている。この国もまた、わずか20年前に革命を経験しているのだ。それを感じさせられぬほどに、その日の公園は実に穏やかな陽気に包まれていた。






4周年
ルーマニア
↓09/21
ハンガリー
↓10.12
セルビア




ハンガリーのブダペスト。それまでのブルガリア、ルーマニアから比べると、街並みには厳かながらも華やかさを感じる。一言に『東欧』と言ってもやはり色々あるようだ。

「長くヨーロッパを旅していると、現在の国境線ではない、別の国境線が見えてくることがある」

ブダペストで出会った日本人のおじさんが語っていた言葉だ。それを頼りとするならば、このあたりはハプスブルクの影響下にあったことで、その文化圏に属しているということになる。となるとルーマニア西部のトランシルヴァニア地方あたりからその傾向はあったのかもしれない。

歴史的、文化的な視点で眺めるとヨーロッパへの興味はぐっと深まる。アフリカを旅していた時も、その国がどこの植民地だったかを考えることで、見えてきた(ような気がした)ことはいくつもあった。その応用であるとも言える。実際、一年前と比べても、格段にヨーロッパという地域を楽しめているように感じる。それが西欧と東欧という違いから来るものなのか、自分が変化した故なのかは不明であるが。

旅に出て4年目はセルビアのノヴィ・サドという街で迎えた。この先はしばらく旧ユーゴスラビア諸国を巡ろうと思う。
無題
セルビア
↓10.20
ボスニア・ヘルツェゴビナ
↓10.29
クロアチア
↓11.02
スロベニア


セルビアに入国した初日、ユーロ予選『イタリア×セルビア』を見るべく飲み屋に入った。だが、観戦することはできなかった。セルビア人フーリガンが暴れたために試合が中止となったのである。客席でアルバニア国旗が燃やされた。

旧ユーゴの旅はそんな風に始まった。つい20年前にユーゴスラビアは崩壊した。その後の紛争。いたるところでその傷跡を目にする。ベオグラードにはNATOの空爆を受けた建物が残る。前述した『アルバニア国旗』の件も、アルバニア人が大多数を占めるコソボの独立問題のためである。ボスニア・ヘルツェゴビナ。古い建物にびっしりと刻み込まれた銃痕が生々しい。

同じ国でも地域によって文化の色合いが全く異なる。セルビア南部、コソボに程近いノヴィ・パザルという町。住民のほとんどはイスラム教徒であるらしく、町にはモスクが立ち並ぶ。カフェは多いが酒を飲める店は少ない。スーパーでビールを購入した若者も、外から見えないよう新聞紙で包んでいた。毎度ながらイスラム圏に入ると音楽までアラブ調にガラッと変わるのは面白い。車で5時間の首都ベオグラードは本屋ですらトランス・ミュージックが流れていたのに、である。町の中心の広場では老人たちが巨大チェスに興じる。
「○○よ(おそらく市長の名)、ボシュニャク人が票を投じた真意をリスペクトせよ」
そんな横断幕が掲げられていた。

旧ユーゴ諸国において、最大の紛争被害国となったボスニア。セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人による民族対立から内戦が勃発したのである。おおまかに言ってしまえば、そもそもこの三民族は同様の言葉を話す南スラブ系民族であり、民族の区分は信仰する宗教の違いでしかない、ということらしい。セルビア人はセルビア正教、クロアチア人はカトリック、ボシュニャク人はイスラム教徒。それぞれの教会、モスクが同じ地域に近接して建つ首都サラエヴォの姿は実に興味深いものだった。

クロアチアの首都ザグレブ、ハロウィンの翌日は『諸聖人の日』と呼ばれる祝日だった。カトリック大聖堂に赴くと、バス停の前に長蛇の列が出来ていた。「全ての聖人と殉教者を記念する日」ということだが、要は日本で言うところのお盆のようなものであるらしい。皆、郊外にある墓地へ向かうところだったのだ。広大な墓地は色とりどりの花々で彩られ、中央にあるキリスト像はろうそくの陽炎の中に佇んでいた。

ベオグラードのセルビア正教大聖堂、一人のおばあちゃんがイコン(聖像画)について一生懸命説明してくれた。
「彼は上海に赴いて孤児たちを引き取ったのよ」
そんなことを言っているようだった。

サラエヴォのモスクでは車椅子のおじいちゃんが毎日礼拝に訪れていた。中で礼拝している彼氏を待っているデート中の女の子の姿もあった。

スロベニアの田舎町の教会で見たミサの光景は素敵だった。ミサの最後、神父さんがイチゴの入った壷を取り出すと、子供たちがわっと集まった。人の良い笑顔で一人ひとりに手渡していく。嬉しそうに頬張る子供たち。信仰の根本とは本来そんな単純な喜びにあるのではないか、そんなふうに感じさせられる瞬間だった。






あけおめ 2011

スロベニア
↓10.29
クロアチア
↓11.12
モンテネグロ
↓11.21
コソボ
↓12.03
マケドニア
↓12.10
アルバニア
↓12.19
ギリシャ
↓12.26
トルコ

クロアチアのアドリア海沿岸。旧市街の街並みがイタリアとそっくりだったのは実に驚きであった。様々な顔を見せてくれる旧ユーゴスラビア。これらがかつては一つの国として成り立とうとしていたのは純粋にすごいことだと思う。

モンテネグロでは滞在期間中ひたすらに雨だった。常に濡れた靴を履き続けなければならないというのは哀しいものだ。入り組んだ湾に面するコトルの町。海沿いの道はしょっちゅう浸水していた。
「さらばアドリア海の自由と放埓の日々よ、ってわけだ」
ってわけだ。ここから先は雨、そして寒さとの戦いとなった。

事実上セルビアからの独立を果たしているコソボ共和国。偶然にも「アルバニア建国記念日」に入国することとなった。「コソボ国旗」ではなく「アルバニア国旗」が町中にたなびく。家の軒先にもショーウィンドウにも新聞にも、どこもかしこもアルバニア国旗。『アルバニア人による国家』という肩書きこそがコソボのアイデンティティーであるのはわかるが、まさかここまでとは。セルビア人フーリガンによってアルバニア国旗が燃やされた理由をようやく肌で理解したような気がした。

マケドニア、アルバニア、旅行者があまり訪れないところほど人は素朴で優しいものだ。中国人を揶揄する
「チンチョンチャン!」
という言葉をマケドニアではほとんどかけられなかった。ヨーロッパを襲った大寒波。その影響はバルカン半島にも及んでいた。アルバニアでは遂に雪と対面することとなった。

アルバニアは近年まで鎖国が行われていたというだけあってユニークなところだった。ニワトリではなく七面鳥がやたら飼われていたり、何故か薄汚れたぬいぐるみが軒先に吊るされていたり。おかしなところだなーとも思ったが、よく考えれば日本だって軒先に鮭を吊るす地域があったりするわけで。正月に「餅のタワー(鏡餅)」を飾るのも外国人から見たら実に奇妙に映るかもしれない。結局、文化とは個性なのだ。それが無くなった画一的な世界など旅しても全く面白くないだろう。

クリスマスはギリシャのテッサロニキで迎えた。初めてのヨーロッパでのクリスマス体験であったが、「華やかさ」よりも「年末感」が強く漂っていたような気がする。イヴには子供たちがサンタの帽子をかぶり、トライアングル片手にいろんな店に出張しては、やる気なくクリスマスソングを歌い小銭をせびってゆく。市場は人々でごった返し、年末の日本の風景と非常に近しいものを感じた。

東欧(旧ユーゴが中心ではあるが)をグルッと周ってイスタンブールに戻ってきた。年越しは日本人宿にて。うどんとお雑煮を頂いた。あけましておめでたい。今後は中東に向かう予定。今年こそは新大陸に渡りたいものである。












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