しもばの放浪日記

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中部アフリカ突入
ナイジェリア
↓04.07
カメルーン
↓04.17
ガボン




想像以上に楽しかったナイジェリアの滞在を終え、カメルーンへ。自分的には未知なる存在である中部アフリカへと突入である。ナイジェリアの端にあるCalabarという町から週二便出ている船に乗り込んだ。船内は100人近くのアフリカ人乗客ででごった返している。肌が黒くないのは自分一人だけ。初めのうちは結構びびっていたのだが、次第に腹が座ってきた。これだけの人に珍しがってジロジロ見られる状況であればスリだの置き引きだのも早々手は出せまい。船外に逃亡できるわけもなし。目撃者がいればそこでアウトだ。かくして深夜3時に出港した船はゆったりと海を渡り、夕方5時頃、無事カメルーンの地を踏むことができたのであった。

マリ、ブルキナファソといった内陸の国からギニア湾岸沿いへと下った頃から、かなりキリスト教色が濃くなってきた。ガーナではタバコがかなり嫌われているようだった。バス乗り場でいつものようにタバコに火を付けたら
「ここでタバコ吸うんじゃねえ!!」
えらい剣幕で追い出された。
「へっ?どうなってんの??」
スペインくんだりからここまで、国際嫌煙キャンペーンの影響をなど微塵も感じなかったのに突然どうした?なるほど、注意して見ると、路上で喫煙している人を全く見掛けない。売店にもなかなか売っておらず、飲み屋などに行って購入する(室内でこっそり吸う)感じ。人に尋ねると、
「僕はキリスト教徒だからタバコは吸わないんだ」
ということだった。

個人的には、キリスト教の国よりもイスラム教の国の方が人が良いように感じている。というのも、イエメンやスーダンが好印象にだったの対して、間に訪れたエチオピア(キリスト教国)に良い印象を抱けなかったのが一番の理由ではあるが……。ともあれ、イスラム教徒は旅人に優しいというのが自分の感想だ。コーランにも『旅人には施せ』と書かれている、という話も聞く。(もっとも、女性の場合はセクハラもあったりするのでまた印象は違うらしい)

キリスト教文化圏に入ると、やはり人の雰囲気が変わった。挨拶代わりに「金をくれ」と言われる頻度がかなり上がった。胡散臭いやつも増えた。『悔い改めれば罪は赦される』という設定自体がその要因の一つなのではないか?などとも思ってしまう。まあ、悪そうな奴らが増えたのはただ単に「都会だから」とも考えられるが。

信仰心という面では熱いものを感じる機会は多い。長距離バスが出発する際には乗客全員で「アーメン」と唱えていた。カメルーン行きの船内で朝を迎えた時もミサのようなものが始まった。一方で、途中で乗り込んできた乗客に
「急いでるんだから早く乗れ!」
と怒鳴り散らしたり、
「あんたがここで寝てると私がリラックスできなくて迷惑なのよ!」
と喧嘩が始まったり。そのくせ手元には聖書を開いてたりするのだからよくわからない。それとこれとは別腹だということだろうか。

教会の数が増えたのはもちろんだが、店の名前でも『セントなんとか』とか『カフェ・ジーザス』とか、そんな名前が目に付くようになって面白い。バスの後部にも格言が書いてあったり。店の看板に
"Don't trust anybody, but trust The God" (誰も信じるな。だが神を信じろ)
と書かれていたのには笑った。もちろんジョークなのだろうが、ある種の真実の一面を言い当てているような気もする。

カメルーンでこの旅初めてスリの被害にあった。前を歩いてきた奴が不自然に道を塞いできた。背負っていたリュックの後ろに別の人間の気配を感じたのですぐに振り払った。南京錠をかけていたので開けられてはいなかったが、脇に入れていたコンパス(方位磁石)が抜き取られていた。布のケースに入っていたので財布かなんかだと思ったのだろう。馬鹿め。大聖堂の前で犯罪を行うとは神をも恐れぬ奴。個人プレイならともかく連携プレイをされるとヘコむのでやめてほしい。頭に来たのでカメルーンはW杯で日本に負けてしまえ。もっとも、彼らがカメルーン人かどうかも定かではないのであるが……。



最近まで名前も知らなかった国、ガボンに入国。国境を越え、ピックアップトラックの荷台に揺られて町を目指す。実に爽快。普段はなかなか移動中の景色など撮ることができないので、ここぞとばかりにカメラを取り出す。同乗していたガボン人たちが覗きこんできた。
「おい、あれ撮ってくれ」
「オッケー」
「俺を撮ってくれ」
「オッケー」
リクエストに応えて写真を撮ると皆大はしゃぎ。こっちのテンションも上がってきた。まだ入国して10分かそこらだが、このガボンという国、随分と楽しい予感がするではないか。また一人、指を差して言う。
「あっちあっち!」
「ん?オッケー」
カメラを向けると、そこはポリスの検問所だった。怒り狂ったポリスに車から引きずり降ろされた。要するに、あれだ。
“ポリスがいるから写真を撮るな”
言ってくれていたのであるが……フランス語なのでわからないのである。

「カメラ向けただけで写真は撮ってない」
説明するも全く聞く耳を持たない。というか言葉が通じない。そのまま国境近くの警察署まで連行された。他のポリスも集まってきた。もう一度、ゆっくりと(カタコトで)状況を説明。すると、
「写真のデータを全部消せ」
と言われる。
「は?ガボンの写真ははともかくなんで他の国まで消さなきゃいけないの?嫌だね」

すると、そこで放置プレイとなった。ボスに連絡して返事を待つ、ということらしい。仕方ないのでひたすら待つ。国境を越えた車は全てチェックのため警察署の前を通るので、英語を話せそうな奴を見つけては説明してもらう。
「アルカイダかもしれないじゃないか!」
などとポリスが抜かしている。そのくせ荷物チェックなど一切しやがらないんだから全く訳がわからない。こっちのことを気にも留めていないようなので、データを消されないようメモリーカードを入れ替えてみたりする。

結局、夕方6時頃に解放された。『警察所を閉めなければならないから』というのが主な理由だろうと思われる。しかし、国によっては賄賂をガンガン請求してきそうな状況にも関わらず、それが一切無かったのには感心した。結局のところ、一人一人が与えられた職務を全うしようとしていたに過ぎないのである。……とも思ったが、後から考えてみるとこちらから自発的に払うのを待っていたような気がしないでもない。

さて、その後に訪れた首都リーブルビル。なんと近代的なビルの建つ大都会であった。中部アフリカでは最大の都市であるらしい。物価高し。治安も悪くなし。だが、何故だかびびってあまり写真を撮れなかったのであった。

チャイナ!

ガボン
↓04.25
コンゴ
↓05.05
コンゴ民主(旧ザイール)


バスに乗り合わせたガボン人の話によると、ガボンの85%は森林に覆われているらしい。なるほど、首都リーブルビルを発ってからも、道の両側にひたすら熱帯雨林が広がっている。3年ぶりとなる陸路での赤道越え。モニュメントのようなものも発見できず、気付いたら南半球に踏み込んでいた。

乗合タクシーでコンゴへと入国。国境の村でフランス人のチャリダーのおじさんに出会った。モロッコから7ヶ月をかけてここまでたどり着いたという。バス移動にもかかわらず5ヶ月を費やしている自分のスローペースにあきれるばかり。
「自転車で旅をしていて何もトラブルは無かったの?」
「Non. 一回パンクしただけだよ」
いや、そういうことじゃなくって……。ビクビクしながら旅をしている自分のなんと小さなことだろうか。



そのちっぽけな村で自分は2泊することとなった。ここから300km先にある町に行くには、週に2回やってくる大型トラックを待たねばならないのだ。かくして、ガキんちょとサッカーをしたり近くの川で泳いだりしながら時を過ごす。そんなまったりとした日々ながらも、このコンゴという国、かなり刺激的なところである。国境まで乗ったタクシーではバックパックと共にヤギの薫製(首付き)を詰め込まれたり、宿の部屋にかつて見たことのないような大グモがいたり、国境警備のポリスが川で猿(食用)を捌いていたりと、コンゴの名に恥じない活躍。うーむ、こんな世界もあるのである。

ようやくやってきたトラックに乗り込み、町を目指す。荷台は地元民で埋め尽くされている。ひたすらの悪路。300kmの移動に13時間を費やした。荷台は暑すぎてやってられないのでトラックの上部に座を占める。国境で仲良くなったポリスが同じトラックに乗っていて、色々と面倒を見てくれた。写真を撮るのも問題なし。むしろ、コンゴの景色が写真に納められることを皆喜んでくれているのがこちらとしても嬉しかった。もっとも、ガボンにしたって入国時の体験がなければ同じような感想を抱いていたに違いない。自分の一面的な体験だけでそれが全てのように感じてしまうのが旅の良くないところだと思う。



コンゴ共和国の首都ブラザビルから川の対岸にあるコンゴ民主共和国(旧ザイール)へと入国。同じコンゴという名だが別の国である。船でたったの一時間、それだけの距離でありながら随分と空気が違う。穏やかだったブラザビルと比べ、コンゴ民主の首都キンシャサはなんだか不穏な雰囲気。到着して早々、タクシーで乗り合せたおばちゃんポリスに30分くらいしつこく金をせびられた。出だしからこれだとげんなりしてしまう。

“金くれ”攻撃も今まで訪れた国を更に上回る。たしかに、貧しい国ではある。だが、西・中部アフリカを旅していて自分のアフリカに対するイメージは少し変わった。水や電気は停まって当たり前。道はボコボコだし、インフラ整備はひどいものだ。走る車もオンボロである。しかし、バスが休憩所に止まる度に乗客は物を買いまくる。人に道を訪ねると、歩ける距離にもかかわらず「タクシーを使え」と言われる。決して安くない値段に思えるのだが、現地の人たちは気軽に使っているのである。貧しいには違いないが、それはそれで経済は回っているのではないか?などと思ってしまう。そういえば物乞いの姿もあまり見かけない。エチオピアあたりの方がずっと多かった気がする。酒も飲みまくる、煙草も吸う、女も買いまくる、そんな連中に挨拶代わりに「金をくれ」などと言われると非常に疲れる。

それと同様に疲れさせられるのが
“シノワ!”
という呼び声である。“シノワ!”とはフランス語で“中国人!”の意味。もちろん、そう呼び掛けられるのはこの国に限ったことではない。どのアフリカ諸国でも、中央アジアでもイランなどでも同じようなことはあった。だが、この国ではそれらを凌駕するようだ。その言い方に毒を感じない時は笑って答えもするが、大半は嘲笑されているようにしか聞こえない。そして、現に嘲っているに違いない。

『肌の色なんて関係ない』
そう彼らが言うとき、それは単に
『黒人だからといって見下されるべきではない』
という意味に過ぎない。数々の歴史がそうさせるのは分かるが、肌の色に誇りを覚え、肌の色に何よりもこだわっているのは他ならぬ彼ら自身だ。アフリカのどこの国でもオバマ・フィーバーが沸き起っていた。一方で、アジア人が道を歩く度に「シノワ!」「ヒンハオ!(ニーハオと言いたいらしい)」の嵐。結局のところ、肌の色で人を差別しているはお前らの方ではないのか。

「中国人!」「中国人!」
囃したてられる度に
「中国人じゃねー!日本人だ!!」
キレてもみるが空しいものである。仮に彼らに
「コンゴ人じゃない!カメルーン人だ!!」
言われたところで
「ふーん、でもアフリカ人に変わりないじゃん」
思う人がいるのと同じで、中国人だろうが日本人だろうが向こうにとってはたいした違いはないのである。

と同時に、自分の感情にも違和感を覚える。
「中国人じゃない!日本人だ!!」
そう叫ぶとき
『俺は日本人だ!中国人と一緒にするな!』
そういう感情が紛れもなく含まれている。
「あ、ごめん。日本人なんだ」
たまに理解してくれる人がいると、妙な優越感を覚えたりする。実にくだらない。自分より人として優れた中国人など何億人といるのだ。自分が日本に生まれたという事実だけで何を意気がっているのだろう。重要なのはどこで生まれたか、などではなく、自分がどんな人間か、ただそれだけのはずなのに……。

しかし、
「中国人ではなく日本人だ」
そのことは事実なので感情の置き場に困ってしまう。彼らが、“チャイナ”を『国』であるのか“アフリカ”のように『大陸』を指すのかいまいち理解していないところがイラっと来る部分ではある。ガーナでも子供たちに「チャイナ!チャイナ!」と囃したてられた。
「チャイナじゃねー!!ジャパンだ!!!」
すると、近くで見ていた母親が
「チャイナじゃないでしょ!アジアって言いなさい!」
そうそう、そういうことなんだよ、とも思ったが、そういうことではないような気もする。

対決!アンゴラビザ(前編)
アフリカ西部を縦断する上で最大の難関とされるアンゴラビザ、最近の情報ではナミビアから北上しようとした日本人旅行者が一ヶ月待たされたあげく取得できなかったとのこと。他の旅行者の例にもれず、自分も苦戦を強いられることとなった。

ガボンのリーブルビル、コンゴのブラザビルの両アンゴラ大使館では
「ここからアンゴラまでは遠すぎる」
という理由で一蹴され、何の進展もないまま隣国コンゴ民主のキンシャサまでたどり着いた。アンゴラに行けないとなると、陸路にこだわるにはコンゴ民主を突っ切ってザンビアに抜けるしか手段がなくなる。道路はなく、船と電車を乗り継ぎ、少なく見積もっても3週間くらいはかかるらしい。ワールドカップにも間に合わなく。時間的にも治安的にもポリス的にもその展開は絶対に避けたい。

キンシャサには日本のゴールデンウィークが明けるタイミングに合わせて入国した。理由は一つ。日本大使館でアンゴラへのインビテーションレターを受け取るためである。ビザの取得が厳しい国ではこれらの書類が必要となるのだ。担当者と面談。
「アンゴラにはどうやって行くの?」
「えっと、バスで国境まで行ってそこから」
「こんな危険な国でバスで移動など出来るわけないだろう!だったらレターは出せまへん」
叱られた。へっ?そんな危険なの??今までこの段階で拒否られることなどなかったので焦る。
「飛行機で国境の町へ行くならいいんですか?」
「セスナみたいのしかないから危ないよ。それでもいいなら出すけど……」
交渉成立。レターさえ受け取ってしまえばこっちのもんだ。思っていたら後日、
「人に尋ねてみたら、今は国境までバスが走っていて飛行機よりもよっぽど安全みたいだ」
とのこと。色々厳しいことも言われたが、根はいい人なので仲良くするのが吉。

アンゴラ大使館は人でごった返していた。入り口で番号札を渡されるも、その札は順番を示すわけでもなく、係員の気分次第で人が呼ばれる完全なアフリカシステム。そもそも内容別に5つくらいのカウンターに分けられてるのに係員が一人しかいないのも良くわからない。
「パスポートのページを全てコピーしろ」
「枚数が多すぎるのでファイルを買ってこい」
無茶苦茶言われるが耐える。

日本大使館では観光ビザ用のレターを発給してもらったものの、ビザのフォームを見る限りどうも厳しそうである。そもそも、"tourism"の意味合いが根本的に違うらしい。写真だったり映像だったり研究だったり、そういった目的を彼らは"tourism"と定義しているようである。アンゴラからの招待機関や発表媒体を記入する欄がある。これでは到底通りそうもない。ネットの情報でも、トランジットビザはともかく、観光ビザとなるとかなり取得が難しいとの話だった。仕方ないので取れる確率が高いトランジットビザを選ぶ。滞在期間はわずか5日。広大なこの国を通り抜けるにはかなりハードであることが予想されるが……それでもコンゴ民主を縦断するよりはマシだろう。

担当者と話す機会を得たので
「ナミビアに抜けたいのだがトランジットで5日は厳しい。せめて10日くらいもらえないですか?」
交渉してみたがどうにもならなそうである。アンゴラ本国に向けて一文したためるよう言われる。誠意を見せる最後のチャンス。
「ガボンでもコンゴでも、キンシャサならビザが取れると言われた。だからここまで来た」
「1月に行われたサッカーのアフリカン・ネイションズカップ(アンゴラで開催された)を見てアンゴラの美しさに感動した。数日でも良いので滞在したい」
などなど。ただのお世辞ではなく、スタジアムの背後に映るアンゴラの夕日は、まるでCGのような鮮やかさだったのだ。

申請は完了。だが本当の勝負はこれからだ。自分の忍耐力との戦いである。月曜に申請、水曜には受け取れるとのことだったが……案の定引き延ばされていく。曰く、
「最近インターネットシステムを導入したばかりで時間が掛かっている」
とのこと。迅速にするためのインターネットシステムではないのか。2日後、2日後、また来週……取得までに一ヶ月を要したリビアビザの悪夢が蘇る。あのときはカイロで毎日麻雀をしていれば良かったが、ここキンシャサでどうしろというのだ。

実際、アンゴラビザを申請したその日に、すでに強盗被害に遭いかけていたのだった。アンゴラ大使館への大通りを歩いていると、人気の少なくなったところで4人組の乗る車が停まった。
「おう、ポリスだ。パスポート見せろ」
今思えば、そこですんなり渡してしまったのもどうかと思う。マニュアルどおり、ピストルをつらつかせながら金を要求されはじめた。は?意味わかんない。パスポート返せ。
「どこへ行くんだ」
「アンゴラ大使館」
「送っていくから車に乗れ」
後部中央座席に連れ込まれそうになる。ここで乗ったら身ぐるみはがされるに決まってる。
「パスポートに問題があるなら日本大使館に電話しろ!」
必死で拒否していたら諦めて去っていった。ポリスにしてはあまりのも強盗然しすぎているし、強盗にしてはいまいち押しが弱いところがモヤッとする部分ではあるが、結構紙一重だったように思う。なるほど、日本大使館のおっさんの言うとおり危険なところだ。

おかげでキンシャサ滞在中はほぼ宿の周りをウロウロするだけの半引きこもり生活だった。アンゴラという取得の難しいビザをここキンシャサで行わねばならないというのはなんとも微妙なところだ。結局、ビザの取得には10日間を費やした。だが、待った甲斐があったというものである。トランジットビザを申請していたにもかかわらず、なんと30日のツーリストビザが取れていた!
対決!アンゴラビザ(後編)
コンゴ民主(旧ザイール)
↓05.22
アンゴラ


『住めば都』と言うべきか。不穏な雰囲気のキンシャサだったが、2週間近くも滞在すると去るのが名残惜しくもある。顔見知りになった奴らもたくさんいる。
「明日キンシャサを去る」
伝えると、口を揃えて
「じゃあ別れの印に何かくれ」
もういいや、お前ら。もちろん、そういうのを抜きに親切にしてくれた人達もいたにはいたが。

国境へと移動。その前夜に見た夢は、『部屋にポリスが押し入りマネーベルトのチャックが閉まらずに焦る』というものだった。やれやれ、深層心理ではかなり追い詰められているらしい。だが、チェックポイントの一つもなく無事に国境の町に到着。

国境の町マタディ。ここにあるアンゴラ領事館でも、トランジットビザであれば比較的楽に取得できるらしい。しかしながらキンシャサでは35ドル(ツーリストビザは70ドル)のビザがここマタディでは100ドルとのこと。この町で、ようやくワールドカップを目指す旅行者に出会った。皆ヨーロッパ人だ。
「日本ワールドカップ出てないでしょ?どこ応援するの?」
と言われるのには少々カチンとくるが……。もちろん、ここで会うくらいだから自前の車やバイクでヨーロッパから下ってきた猛者ばかり。こちらからすれば、
「自分の車で旅しているなんてすごい!」
という感じだが、逆に
「公共の交通機関で旅しているなんてすごい!」
と言われた。立場が違うだけでお互いにお互いが同じようなことを感じているというのはなんとも面白い。

『ツーリスト』
アンゴラビザを申請するときにも感じたが、中部アフリカ一帯では、この『旅行者』という意味が伝わらない。理由は一つ。旅行者がいないからだ。商業上の目的もなく旅をするなど金持ちの道楽に過ぎない、そのことを強く実感させられる。ナイジェリアやカメルーンでは、ビジネスで他の国を訪れている人も多い。
「何をしにこの国へ来た?」
「いや、ツーリストだ」
「そうか。で、何のビジネスなんだ?」
こんな具合で話が通じない。
「Ministry of Tourism(観光省?)はお前にいくら払っているんだ?」
と尋ねられたこともあった。コンゴあたりでは、“ツーリスト”を“フォトグラファー”と思い込んでいるふしがあった。ここアンゴラでは何故だか“ツーリスト”という言葉は通じるが、『ツーリストは自分の車で移動するものだ』という概念があるらしい。
「お前、何でバスに乗っているんだ。お前の車はどこにあるんだ」
質問の意味がわからん。

ともあれアンゴラ。遂に、遂に、フランス語圏の国々から脱出である。ここまで長く厳しい道のりだった。そう、ここアンゴラ、公用語はポルトガル語である……嫌がらせか?
「誰かフランス語を話せる奴はいないのか!?」
とすら思ってしまう。片言とはいえ自分のフランス語も少しはマシになったということか。

言葉はほとんど通じないが、人は皆親切で温かい。アンゴラへの入国は夜になってしまった。すると国境の係員がイミグレーションオフィスに泊まらせてくれた。バスに乗っていても人々が食べ物や飲み物を勧めてくれる。物をくれたからどうという訳ではなく、純粋に歓迎してくれている感じがなんとも嬉しい。
「外国人には出来る限り親切にしたい。それだけでこの国のイメージは変わると思うから」
カメルーンで拾ったタクシー運転手の言葉。そんな気持ちを抱いてくれている人達がどこの国にもいるのは事実だ。

ビザの取得に時間を費やしたため、滞在期間を削らざるを得なくなった。だが、時間があったとしても駆け足の移動を強いられたことだろう。アンゴラの物価は実に高い。首都ルアンダで見つけた最安のホテルは60ドル(!)。とても手が出ないので近くのポリスに相談すると民泊を斡旋してくれた。ポリスにこんなことを相談できる環境がありがたい。

宿は高い、食事も高い、移動も高い。この物価で庶民は果たして暮らしていけるのだろうか。都市の景観は紛れもなく都市なのだが、移動中に垣間見える集落の民家はすごく質素で、とても同じ国とは思えない。その暮らしにどれだけの差異があるのだろう。結局、バスを乗り継いで都市を点々とするのみとなったアンゴラの旅。コンゴで会ったおじさんのように自転車で旅でもしたらならば、また異なる景色が見えたに違いない。





ナミビアへの国境にたどり着いたのは夕方だった。このまま去るのが名残惜しくて、国境の町で一泊することとした。アンゴラの夕日を眺めながら中部アフリカの旅を思い返す。しんどいことだらけだったが、反面とても楽しかった。その割にはネガティブなことばかり書いてしまった気もするが……。だが、どれだけネガティブなことを聞かされたとしても、そこにあるのはそれだけではない、そう感じることができたのは、この先の自分にとって大きな財産になるのではないかという期待はある。

ナミビアに入ればツーリストもたくさんいるだろう。ある意味、真のアフリカの旅はここで終わりなのかもしれない。もちろん、“真”も“偽”もあったものではない。ただ一部の地域を通り抜けただけに過ぎなし、時間的に行けない国もたくさんあった。それでも、ある程度の気合を必要とする中部アフリカ縦断をやり遂げたことへの感慨はある。観光としても楽しめる東アフリカは長い人生で訪れる機会はあるだろう。

“ツーリスト”がほとんどいない中部アフリカ。自分が完全に“異邦人”として存在できるのは、それはそれで心地好くもあった。もっとも、彼らにとっては数多いる“中国人”の一人に過ぎないのだろうけど。

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