しもばの放浪日記

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ちんぼつ。
『沈没』とはバックパッカー用語で一つの場所に長期停滞してしまうことを指す。それも町歩きや観光などに費やすのではなく、ほとんど外に出ずにひたすら沈んでしまうという意味合いが強い。『ひきこもり』と同義とも言える。というわけで、自分もカイロでどっぷりと沈没してしまった。

泊まっているのは日本人宿。沈没する人が多い宿は同時に濃ゆい旅人も非常に多い。いろんな国の穴場だったり聞いたことないような場所の話が聞けるのは楽しいものだ。情報も手に入れることができる。実に色々な人間がいる。日本で観光バスの運転手をやっていたり、元ホストだったり、そんな人たちの話も面白い。そして、宿にはキッチンがあり、近所にはキリスト教徒がやっている豚肉を売っている店もあり、料理上手な人もおり、頻繁に美味い日本食を食べることができる。これに勝る魅力はあるまい。マンガや本もたくさん置いてある。でもって日がな麻雀をやったりするのである。

たまに日本の友人から
「色々な経験をして日々成長していることでしょう……」
といった内容のメールが来たりする。自己嫌悪に陥る。なんのことはない。毎日ぐうたらしているだけである。好奇心の磨耗は否めない。外を歩いて見る景色も、日々の変わらない日常にすぎない。

一応ピラミッドくらいは行ってみた。ああ、なるほど、ピラミッドであった。でかいといえばでかかった。ああ、写真で見たことあるなぁと思った。

エジプト南部にあるアブシンベル神殿にも行った。これは結構良かった。神殿内に落書きがたくさんあった。名前と日にちが彫られているが、よくよく見てみるとどれも古い。面白いので一番古い落書きはどれだろうと探してみた。自分が見つけた限りでは『1823年』だった。江戸時代じゃねえか。ウィキペディアで調べてみたら、どうやら勝海舟が生まれた年であるらしい。三千年とか四千年とか五千年とか言われてもいまいちピンと来ないけれど、こういう微妙に最近の年代の方が
「おおー、そんなに昔からあるのか!」
と感じられる。不思議なものである。

毎日なんにもせずにだらだらしているだけみたいに書いてしまったが、ただだらだらしていたわけではない。だらだらしてる間にもしっかりとその後のルートを組み立てていたのである。ここカイロから日本に帰国するという旅人は多い。またはヨーロッパやインド、東南アジアあたりに飛ぶ人も多い。アジアを横断しながら中東あたりを下ってエジプトにたどり着くと、ちょうど『行き止まり』のような形になってしまうのだ。スーダンビザを取ってアフリカ南下するには時間がかかる。だけど隣国のリビアのビザ情報は極端に少ない。仕方ない、そろそろ帰るかぁ、てなもんである。だが、自分はそのリビアのビザを申請してみた。ツーリストビザは個人では手配できない。だが、トランジットビザなら個人でも可能だという噂は聞く。
「なぜトランジットビザが欲しい?」
「チュニジアに行きたい」
「だったら飛べ」
「飛びたくない」
これでビザの申請は通った。だが、ここからが長い。最低2週間かかると言われ、2週間後に行くと「来週に来い」、翌週に行くと「週末に来い」の繰り返し。やはり取れないのかと諦めかけた4週間後、なんと晴れてビザ取得に成功!1ヶ月間だらだらし続けた甲斐があるというものである。ちなみにトランジットビザの期間はたったの5日。

というわけで、リビアからチュニジアに抜け、そこからシチリア島に渡る予定。いよいよヨーロッパが見えてきた。

旅の初めに購入してボロボロになったジーンズを、ここエジプトの地に埋葬した。数千年後に発掘されればなお良い。


意外なりリビア
エジプト
↓03.06
リビア




カイロでの沈没生活を終え、たどり着いたのはリビアの首都トリポリ。5日間のビザなので、エジプト北部のアレキサンドリアからバスで一気に突っ走ってきた。その行程の景色はほとんどが砂地。だが、首都トリポリの景観は首都と呼ぶにふさわしいものだった。

入国の時は今までで一番緊張した。なぜなら、ビザが取れたものの国境に行ってみたら
「グループじゃないと駄目だ」
と追い返された、なんて話も聞いていたのだ。パスポートにスタンプを押されるまでは、そして押されてからも国境を越えきるまで、パスポートチェックのたびにドキドキものであった。

行ってみないとわからないことというのはたくさんある。もちろん、行ってみたところでわからないことだらけなのではあるが、それはそれとして、リビアというのはもっともっとクセのある、おかしな国なのかと思っていた。短い滞在で表面的に感じた限りではとても常識の通じる国であった。地理柄か、欧州の香りがほのかにする。スカーフをしていない女性も増えた。トレンチコートに革靴を履いたおっさんの姿も見える。さすがは旧イタリア植民地。国境を越えた途端にコーヒー文化圏になったのは面白かった。街のあちこちにカフェがある。店の中でタバコを吸ったら怒られた。エジプトという国にはほぼ存在しなかった"NO SMOKING"という概念に意表を突かれた。



リビアビザを取得するにはパスポートの名前などをアラビア語で併記する必要がある。この作業自体は特に難しいものではない。カイロの日本大使館にパスポートを持っていけば、変換したものをページに記入してくれるのだ。

なぜパスポートにアラビア語表記が必要なのか。なんでも政府の高官がヨーロッパで入国拒否されたために報復措置に出た、との噂だが、表向きは
「係員が英語ができないため」
などと言っているらしい。まあふざけた理由ではあるがそれも当たらずとも遠からずだと思っていた。これだけ閉鎖的なイメージがある国ならば英語もほとんど通じまい。

だが、違った。想像していたよりも遥かに多くの人が英語を解するのである。たとえば、街で道を聞くとする。アラビア語が話せないのでその場所の名称だけを連呼して、指で「あっち?こっち?」なんてジェスチャーしてみる。すると途端に、
"What do you want??"
なんて返される。移動中に立ち寄った食堂にも英語メニューが置いてあった。何よりも意外だったのは、外国人を珍しがったり敬遠したりするそぶりがほとんど感じられなかったことだ。

首都から程近いレプティス・マグナというローマ遺跡には、さすがに観光客の姿がちらほら見られた。それでもエジプトのような観光客の群れではないのでほど良い雰囲気だった。そして、中には日本人のおばちゃん団体客も。あれだけビザ取りに苦労して、待って待って、「そうそう簡単には来られない国に来てやった!」という達成感に満ち満ちていたのだが、なんてことはない、日本で旅行会社を通してお金さえ払えば随分と簡単に来られるということなのだろう。もっとも、自分もカイロでひたすらだらだらしていただけなのでそんなに苦労したとも言えないのだが。

じっくり廻るためには今のところ旅行会社を通してツーリストビザを取得するしかないのだろうか。見所も多いし人も親切だし主要な町にはユースホステルもあるし物価もそこまで高くはないしで旅行者にとっては魅力的な国だ。政府は解放政策に転化してきているようなので個人で簡単にビザが取れるようになったら、いずれまた。ただし夏場は50℃近くに達することもあるらしい。時期は選んだ方が良さそうである。


ヨーロッパのかおり
リビア
↓03.10
チュニジア




明け方、チュニジアの首都チュニスに着いた。ひさびさに息が白くなるほどの寒さを体験した。寒い。普通に寒い。「北アフリカ」だとか「地中海」だとかいう言葉にまんまとだまされていた。調べてみたらここチュニス、新潟とか仙台あたりとほとんど緯度が変わらないのだ。

新市街の町並みはほぼ完全にヨーロッパだった。欧州から来る人々はこの国にアラブの香りを感じるのだろう。だが、イスラム圏を通ってここまでやってきた自分からしたら、ヨーロッパ臭が実に匂う。欧州臭ぷんぷんである。

なんとこの国、イスラム圏の国々がどこも金曜日を休日とするにも関わらず、公共の休日が日曜日であった。この事実ひとつで、この国の欧州志向が立証できるというものだ。旧フランス植民地。公用語はアラビア語、そしてフランス語。人々に何かを尋ねると100%フランス語で返ってくる。リビアであれだけ通じた英語が全く通じない。映画の看板もフランス語。自分の喋れない負い目からだろうが、人々が、「フランス語くらい喋りやがれ、けっ」という空気を醸し出しているように感じてしまう。カチンとくる。若い女性はほとんどが髪を露出している。服装もやはり欧州的。さすがに肌は露出していないが、夏場になったらわからない。道にはオープンカフェが立ち並ぶ。そんな光景を見て、
「絶対こいつら自分のことアフリカ人だと思ってねーなー」
と思った。別にアフリカだからどうこうというわけではないのだが、同じようにきっと欧米人も東京などに来たら、
「絶対こいつら自分のことアジア人だと思ってねーなー」
と感じるのではないかと思ってしまったのだ。

テレビでサッカーを観ていて面白い場面があった。チュニジアのチームとヨルダンのチームの試合。延長戦を終えて同点、PK戦に入った。ヨルダンの選手はゴールを決めるとその場にしゃがみこみアッラーに感謝の祈りを送る。だがチュニジアの選手は喜びはしゃぐだけ。一人として祈る選手はいなかった。

更に特筆すべきは町の交差点にある時計台。四面に付いている時計の全てが全て、なんと、時間が合っていたのである。今まで通ってきた国は、公共の場にある時計の時刻が合っていることなど滅多になかった。動いているものすらほとんどない。いわばそれらは「時計」ではなく、「かつて時計だったもの」に過ぎなかったわけだ。しかし、ここチュニスでは違った。驚嘆すると同時に、ヨーロッパの底知れぬ実力の片鱗に触れたような気がして恐ろしくもあった。

フランス植民地であった影響と、地理柄イタリアの影響も強いのか食べ物は非常に美味かった。町で売ってるサンドイッチ。安いにも関わらず絶品。これも、今までのどこの国よりも中身が豊富であった。何も言わずに付け合せにオリーブまで付いてくる。恐るべし。


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