イエメン
↓11.25
ジブチ
↓11.28
エチオピア
ついにと言うべきか、ようやくと言うべきか、アジアを離れるときが来た。海賊の跋扈する紅海を越えてアフリカへ。どっかのテーマパークの「なんとかの海賊」などよりも、遥かに上級のアトラクションだ。
用意された船は20mくらいの貨物船だった。日暮れと共に船は出港。屋根もなく、看板で雑魚寝。船の揺れに合わせて揺れる星空があまりに綺麗だった。周りに何も明かりがないため暗闇の中に浮き上がって見える。まるでCG加工されているかのようだった。
大海原のただ中で日の出を迎えた。ときおり遠くにポツポツと船影が見える。もしあれが海賊だったらひとたまりもないなぁと思うと同時に、こんな小さな船を襲ってもたいした足しにならないだろうなぁとも思う。海原を切り裂き船は進む。潮風が全身にまとわりく。
たどり着いたのはジブチという国。東アフリカの角の脇にひっそりと佇む小国である。いきなりのブラックアフリカの世界に戸惑う。イエメンでも地理柄、アフリカ系の人たちを目にする機会はあったが、やっぱり住民のほとんどがそれだというのは全く雰囲気が異なる。人々が皆アグレッシブな気がするのは気のせいだろうが、やはりどこか陽気さが感じられる。
そしてこの国、なぜだかわからないが恐ろしく物価が高かった。宿が最安で30ドル!高級ホテルでもなんでもない。ただ部屋があってベッドが置いてあるだけだ。しかし、このあとのエチオピアもそうだが、ローカルフードとしてパスタが食べられるのは非常にありがたかった。アルデンテにはほど遠い、かなり茹ですぎの感はあるが、そんなことは問題ではない。かつてイタリア軍が侵攻した影響なのだそうだ。この点に関して言えば、ムッソリーニに感謝である。
バスの柄からアフリカン。
ジブチから陸路でエチオピアへ。はじめのうちは活気があって楽しそうな予感がしていた。しかし、数日もすると、この国の持つ空気にあてられてしまった 。
初めに立ち寄ったハラルの町。イスラム教の聖地でもあるらしいのだが、外を歩くたびに
「チャイナ!」
「ジャッキー!!」
「ジェット・リー!!!」
ジェット・リーでもないのにどう応えればいいのだ。
物乞いが多い。インドのような混沌とした世界を通ってこなかったせいか、結構こたえる。子供が手を出しながら近づいてくる。
「ハロー、マネー」
露地に入ると、数人の老人がチャット(イエメンで言うカートと同じ)を噛みながら寝そべっている。こっちを見るなり
「おう、お前だよ、お前を待ってたんだよ」
とばかりに手を差し伸べる。
首都アディスアベバでは、旅行者が多いせいだろう、ようやく日本人扱いしてもらえた。だが、それだけになおさらたちが悪い。通りを歩くたびに人が寄ってきては、
“Where are you going?”
勝手に道案内をしはじめたあげく、
「チップをくれ」
「マリファナ買わないか?友達プライスだ」
今までなら適当にあしらっていたのに、苛立っている自分に戸惑う。
ある時も、同様に人がつきまとってきた。
「お前にやる金はない。だからどっかに行ってくれ」
言おうかと思ったが、思い直してみた。一つには年齢的なこともあった。そのへんのヘラヘラしてる若者ではなく、“いい大人”であったのだ。もしかしたら本当に親切にしてくれているだけかもしれない。だとしたらあまりに失礼ではないか。そう思わせるだけの雰囲気があった。だが、最後に彼が発した言葉はこうだった。
「親切にしてやったんだから、金をくれ」
信じようとするたびがっかりさせられる。最後には金をせびられる。断ると彼らは、決まってこう言う。
「フレンドだろ?」
フレンドなどではない。自分は『金』という存在でしかないのだ。
もちろん、みんながみんなそうだと言い切ってしまうのは乱暴すぎる。中には良い人だっている。だが、どうしても疑念が先に浮かんでしまう。人が近付いてきても遠ざけてしまう。心を閉ざしてしまう。美しい景色を見ても、人の親切に触れても、うまく心に馴染んでいかない。物事の一方の面しか見えてこないというのは、自分の心もまた、その一方に塗り潰されている証拠ではないのか。
必要だから近づく。利用できるから近づく。用が無くなればいなくなる。非常にあざといのであるが、人と人との関係における真実の一面を見ているような気がしてならない。自分自身、そんなあざとさを持っている。だからこそ、なおさら苛つくのだ。
自分という存在が、彼らにとってみたら有り余るほどの金を持っている。そのことは紛れもない事実だ。そして、その違いを決定づけているのは努力の結果でもなんでもない。単に生まれ育った環境の差にすぎない。努力うんぬんで言うならば、明確な目的のためにこれだけ流暢に英語を操れるようになった彼らの方がよっぽど努力しているとすら言える。
バスから外を眺めると、壮大な景色が広がっている。のどかな(とも表現できる)田園風景を目の当たりにできる。それを見て人は感傷に浸ってみせる。
「現代の日本人が失ってしまったものを彼らは持っている」
などと言ってみせる。それは一つの真実だろう。だが、だったら替わってみせろ、言われたとして出来るのか。綺麗ごとを言うならば、持つものすべてを捨て去ってみせよ、言われたとして出来るのか。有り余る金を持ちながら、物乞いの前を通り過ぎ、ボラれないようピリピリし、失わぬよう必至に抱え込む姿は、金をせびってくる人々のそれと等価ではないのか。言ってしまえば、こんなことを書いている自体、いい気になっているに他ならないのだ。
バスを降りると、子供が話しかけてきた。
“Are you rich or poor?”
なんて言やいいんだ。