しもばの放浪日記

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中央アジアへ
中国
↓06.30
キルギス


一見した時点では、なんだかんだ言って漢民族だらけだなという印象しか抱いていなかったウルムチの町。が、少し足を延ばしてウイグル人街に入ると雰囲気は一変した。人が変われば言葉も変わる。食べ物が変われば匂いも変わる。イスラム臭。着る服も流れてくる音楽も異なる。宗教が文化に与える影響力。いや、宗教そのものこそが実は文化なのだと感じられるほどの空気感の変化。一方で、モスクのデザインが中華風だったり、羊肉の餃子がせいろで蒸されていたり、文化の入り混じり方も面白い。思えば、マレーシアでイスラム世界から離れ、タイ、ラオス、そして中国へ。西まで来たら早くもまたイスラム世界の入口である。そう考えると仏教の範疇なんてたかだかアジアの右半分くらいなのかと驚いてしまう。



西の果ての町、カシュガルまで行くとイスラム色は更に濃くなる。ここまで色合いが違ってしまうと、確かに『中国』という言葉で括ってしまうには無理があるように思える。実際、ウイグル人たちが政府や漢民族に抱く不満は相当のようで、ことあるごとに
「俺たちは虐げられている」
という話を聞かされた。あまりに酒をガンガンあおりながら話すので、
「イスラム教なのに酒飲んでいいの?」
「ここは中国だからいいのだ」
なんのこっちゃ。

町で漢民族に間違えられることもしょっちゅうで、買い物するときなどにも始めはものすごく邪険な感じのおっちゃんが、日本人だと知ったとたんに露骨に愛想が良くなったりする。他にも、通りすがりの子供にあっかんベーッとやられたり、綺麗なお姉ちゃんに見とれていたら「なに見てんねん!!!」とキレられたり(もっとも、漢民族かどうかは関係ないかもしれないが)。色々と歴史的民族的に複雑な問題を抱えていて一筋縄ではいかないのもわかるが、こうしてとばっちりを受けてしまうと、単純に
「あー、もー、お前ら仲良くしろよ!!」
思ってしまうことしばしばなのである。

なんにしろ、2ヶ月に及ぶ中国の滞在を終え、中央アジアの国、キルギスへ。当初のチベット方面に行く予定から一転して中央アジア、シルクロードの旅。カシュガルの町に漂うイスラムの香りに魅せられ、先に広がるイスラム世界に想いを馳せつつ国境を越えた。

……だが、入ってみたらば似非ロシアであった。イスラム臭よりも欧州臭がする。そう、ここは旧ソ連圏。レーニン像がそびえ立つ。夏真っ盛りでお姉ちゃんの露出度も高い。人々はやはりウォッカをあおる。イスラームはどこへやら。



長きに渡った中国滞在の影響で、久しぶりの漢字の無い世界に戸惑う。中国語もカタコトながら(旅で役立つ用語程度なら)話せるようになっていたのに、一気に振り出しに戻されてしまった感じ。ロシア語大苦戦。「こんにちは」がハロー、ニーハオならぬ
“ズドラストヴィーチェ”
長い。覚えるのに2週間かかった。

当然ながら町中の文字もロシア語だらけ。キエフ文字というこの文字、一見アルファベットに酷似しているのに、ときどき読みが違ったりしてややこしい。それでも暮らしていると徐々に頭に入っていくもので、たとえばネットカフェには
『ИНТЕРНЕТ』
の文字。これはおそらく“INTERNET”。『И』が“I”で『Н』が“N”、『Р』が“R”だとわかる。すると、大商店の看板に
『СУПЕР МАРКЕТ』
『С』が“S”、『У』が“U”、『П』が“P”で“SUPER MARKET”。こうやってひも解いていくと、道に『СТОП』という標識があっても、なるほど“STOP”か、理解できるようになっていく。暗号解読はいつだって面白いのだ。


毛沢東からレーニンにバトンタッチ。
2周年
今月の13日をもって、旅に出てからちょうど2年が経った。2年も日本で飯を食べていなくても、その地その地で食ったものを消化吸収新陳代謝して、体はしっかり機能していくのかと、当たり前ながらなんだか感慨深く感じた。たしかに、今のご時世その気になれば醤油とか現地で調達して日本食を楽しむ事だってできるわけで。というわけで、同行者が2周年記念に美味しい日本の味を提供してくれた。ありがたい。

ちなみに2周年を迎えたのはイランのヤズドという町。その日の夜行バスでテヘランに移動。ワールドカップのアジア予選、イランvs北朝鮮を観戦した。



予想していたとおり、スタジアムに来ていた多くのイラン人に、
「コリーヤ、コリーヤ」
と囃したてられる。日本人だとわかると一応納得はしてくれるが、東アジア人というだけで、やはりどこかで同一視されている。イランを応援しに来たというと驚かれるのだ。だったらお前らもただお隣さんというだけでイラクを応援するのかと言いたくなる。

思えば、外にある数々の珍しいものに触れたくて世界を旅していたはずなのに、気付けば自分自身が周りから珍しがられるという日々が続いている。わざわざ外の世界に出なくとも、実は身の回りにいくらでも面白いものは転がっている、そのことのなによりの証明のようにも思える。

キルギスの首都ビシュケクには、実に4週間にわたる滞在となった。日本人はこの国はビザが不要だが、他の中央アジアの国々へのビザ取得に非常に時間がかかる。周辺諸国のビザを取るため長期滞在する旅行者が多いのがこの町の特徴だ。そんな中、自分はウズベキスタンビザの取得をこじらせてしまった。通常、ビザの取得は申請の一週間後。その日にウズベク大使館へ行くと、
「あなたのビザ申請は外務省から拒否されました。旅行会社を通して申請してください」
とのこと。原因は教えてもらえなかったが、検証した結果、職業欄に前職の映像関係の仕事を記入したためマスコミ関係者だと思われたのではないか、という説がもっとも有力であった(しかも、調子こいてプロデューサーでもないのにプロデューサーと書いた)。そんなこんなで、日本人の通常のビザ代15ドルとは別に、旅行会社に申請料金65ドルを支払う羽目となり、更にビシュケク滞在が長引いてしまったのだ。

一時は腹が立っていたが、同宿のフランス人に愚痴っていたら、
「俺、フランスでビザ取ってきたけど普通に60ユーロ払ったよ」
とのお答え。そうなのである。日本人ってだけで楽に旅行させてもらえてることって実はたくさんあるのだ。背景には、日本国がたくさんのお金や技術を諸国に提供しているという事実があるのだろうが、だいたい、こうやってのほほんと世界をうろつけているのだって、日本経済が世界のトップレベルの水準であるおかげに他ならないし、そうやって国を押し上げてきた国民の皆様方の努力の賜物なのである。2年間も税金を払ってなくて申し訳ない。えんだかばんざい。

こうした予測外の事態によって、出会える人や出来事も全て変わっていく。それが実感できるのがやっぱり旅の醍醐味だと思う。今まで選んできた全ての選択肢が今の自分を型作っていて、同時に、自ら手を下すことのできない全ての事象によって、自分はこの場所に立っているのだ。その先で出会えたものに感謝するのならば、そこに至った一つ一つの偶然に感謝すべきだ。運命論としてではなく。たとえ他の道を進んでいても、だからこそ出会えたものがあったのだとしても。

ひさしぶりに日本の友人に電話をした。電話の最後、
「いつ帰ってくるの?」
の問いに答えるのが少し辛くはあったが、先に続いていく道を楽しみに思える気持ちは、まだ持続させられそうだ。

中央アジア雑記
キルギス
↓08.05
タジキスタン
↓08.16
ウズベキスタン
↓09.22
トルクメニスタン



キルギスの田舎町にて。

キルギスからパミール高原と呼ばれる4000m級の山々を越えてタジキスタンのムルガーブという町へ。車の後部座席に4人詰め込まれるという強行軍(しかも高地の寒さの中、国境手前で車内で夜明かし)。窓の外は荒涼とした景色が続く。たまに休憩で車を降りては飲む川の水が冷たくて美味い。たどり着いた町では子供たちとサッカーをして遊ぶが、すぐに息が切れ高山病になりかけた。



同じくパミール高原のホーローグという町。この町は川を挟んでアフガニスタンとの国境に接しており、週一で橋の向こうからたくさんのアフガン人が渡ってくる。アフガニスタンマーケットが開かれるのだ。老若男女軍人さんまでいろんな人がやってくる。若い連中は食堂でがんがんウォッカを呷る。
「アフガニスタンはDangerousか?」
と尋ねたら、満面の笑みで
「イエース!デンジャラース!!」


アフガンのお茶屋さん。

ビザ取得に苦戦させられたウズベキスタン。入国後、更にお金を払ってビザ延長までしてしまった。1ヶ月以上に渡る滞在となったが、古都サマルカンドやブハラよりも、首都のタシケントでひたすらだらだらしていた記憶がほとんどである。なぜならこの国でも、近隣諸国へのビザ取りに時間を費やさねばならなかったのだ。特に非道いのが南に位置するトルクメニスタン。5日間のトランジットビザに所要10日もかかる。35ドル。狂ってやがる。しかも大使館の開門前に警備員に名前を控えてもらい、リスト順に呼ばれるのだが、一日10人ちょっとしか入れないので前日の深夜か早朝に名前を書きに行く必要あり。警備員(ウズベキスタンの警察官)に賄賂を払えば自動的にリストの上位に入れるシステム。腐ってやがる。

このウズベキスタン、実は朝鮮系の人たちがたくさん暮らしていて、韓国製の車が多かったり、韓国料理屋がところどころにあったりする。ソ連のスターリン時代、極東部に住んでいた朝鮮人たちが強制移住させられたのが理由だとかなんとか。なんとテレビでオリンピックの野球の準決勝、日本vs韓国戦を(録画で)見ることができた。結果はご存知のとおり。


ウズベキスタン、ヒヴァの町のミナレット(塔)から。

トルクメニスタン。独裁国家である。だがこの国、石油や天然ガス資源などで相当にリッチであるらしく、なんと水道やガスなどの公共料金はすべて無料らしい。泊まった宿では、一日中ガスコンロが点けっぱなしであった。人々も皆まったりのほほんとしているし、ひょっとしてそんなに悪い暮らしじゃないんじゃなかろうか。終身大統領であったニヤゾフ大統領の肖像が以前までは町中に掲げられていたらしいが、彼は数年前に死亡。肖像もあらかた取り外されていた。出来ればその時期の町を見てみたかったのが残念ではある。

そんなニヤゾフ大統領の遺産ともいうべき首都アシュガバードの町並み。悪趣味とも言うべき豪華絢爛な建物の数々に圧倒させられずにはいられない。町の中央広場には大統領の黄金の像を頂いた塔が。しかもこの像、太陽の動きに連動して回転するというのだから爆笑である。まさにアニメに出てくる悪の帝国。更には、その塔を中心に弧を描くように宮殿風の建物(おそらく政府の省庁など)が並び、そこから更に放射状にでっかいマンション群が一直線に続いていく。部屋の明かりを見る限り、きっとほとんど人は入っていない。おそらく、需要があるかどうかではなく、故大統領的に
「こういう町にしたい!!!」
構想があって、とりあえず後のことは建てちまってから考えよーということなのだろう。リアル・シムシティ。日本で大金持ちがお城をおっ建ててしまうのと同じ感覚で都市が設計されている。この異質な景観、傍観者として見てる分には爽快ですらある。いまだ建設中の建物が数多くあり、いつか都市として完成したらまた訪れてみたいが、大統領が変わってしまったのでどこまではっちゃけられるのかが気になるところ。

イランラマダン

トルクメニスタン
↓09.25
イラン


ずっと憧れつづけた国もあれば、知らぬ間に憧れになっていた国もある。どちらかと言うと、自分にとってイランという国は後者であった。「憧れ」と書いたが実際は少し違う。それはなんだか義務感にも似ていた。
「行かねば……きっといつか行かねば…………」
そんな感じだったのである。

なぜなのかはよくわからない。まず一つに、アジアを横断する上においてほぼ確実に通らねばならない場所に位置しているというのがあるだろう。イスラム圏の代表国的なイメージもおそらく一役買っている。更には“世界の警察”ぶってる巨大強権国家に対する敵対心などに爽快感を覚えるのかもしれない。
「でも早く行っとかないとこの先どうなることか……」
そういう気持ちがないとも言い切れない。



ウズベキスタンとトルクメニスタンの国境で、トルコから中古車を運ぶトラックに出会った。『トランスなんちゃら(国名)』という名前のトラック会社。しかし、見事に『なんちゃら(国名)』の部分は塗りつぶされていた。運ちゃんが言う。
「『なんちゃら(国名)』残しとくとイラン通る時にプロブレムなんだよー」
これだけでイランに対する期待は膨らむばかりだ。

しかし、トルクメからイランの国境を抜けると早々に度肝を抜かれた。イミグレーションの建物にはテレビが据えられていた。そこで流れているのはなんとCNNだったのである。町中に溢れるコカコーラやペプシの看板。路上で売られているハリウッド映画のDVDの数々。とどめは若者の服に『U.S.ARMY』の文字!なんだ、みんなアメリカ大好きじゃないか。



だが、テヘランの旧アメリカ大使館は一味違った。壁にびっしりと描かれたプロパガンダ。『我々はアメリカを敗北に直面させるであろう』と英語で書かれている。『アメリカは悪だ!』的な絵のオンパレード。これは面白い。写真を撮っていると、通りかかったイラン人が話しかけてきた。
「これを信じちゃいけない。おかしいのは政府なんだ」
と同時にこんなことも。
「イランの人々は世界中から誤解されている。我々は他の国の人々と親しくしたい。もちろん誰も戦争なんて望んでいない」
事実、出会ったイランの人たちは皆とてもフレンドリーだった。特に年配の人はものすごく紳士だ。惜しむらくは「チーナ、チーナ(中国人のこと)」と囃したててくるバカみたいな若者がたくさんいることではあるが……まぁどこに行ってもバカはいるのでそれは良い。

数人話しただけではわからないが、自分が会った人々の多くは政府を批判していた。そのほとんどが、「自由がない」「もっと自由がほしい」といったもの。そりゃそうかもなぁとは思う。イスラム革命なんてものが起こって中には喜ぶ人もいただろうが、今まで許されていた色んなものが規制されたら息苦しさを感じて当たり前だ。『深夜特急』を読んでたら、革命前は沢木耕太郎もフツーにテヘランの街角でビールを飲んでいた。今ではもちろん、ノンアルコール以外のビールは売られていない。コークとペプシは溢れているが。

しかしながら、旅行者としての視点で見れば、ついにどっぷりとイスラム世界に浸かれるときが来た!という興奮はある。中央アジアもイスラム国家ではあったが、かつては『ソ連』という一つの国だった、その影響を強く感じた。国から国へと移動しても、“国境越えた感”が薄くて戸惑っていた。だが、イランに入った途端に色々なものがガラッと変わった。

文字がうねっている。正確にはペルシャ語とアラビア語は別物であるらしい。だが、こちらからしたらうねっているだけでもう歴然としたイスラームである。女性の服が黒い。後ろから見ると『カオナシ』のようだ。そして、あちらこちらに林立するモスク。もちろん、中央アジアにもモスクはあった。文化の交差点と呼ばれているウズベキスタンのサマルカンド。そこには過去に建てられた廟やモスク、豪華絢爛なマドラサなどがあった。しかし、なぜだか物足りなかった。なんというか、“観賞用”という赴きの方が強いのだ。“現役感”が無いのである。そこへ来ると、イランのモスクは違う。大きなモスクには威厳があり、ちっちゃなモスクも町に馴染んでいる。地域密着という感じがする。『生きている』とでも言おうか。大きなモスクも小さなモスクも一様に、毎日多くの人が足を運び、祈りを捧げている。中央アジアのモスクだって、もちろん信心深い人は通ってるのだろうが、どうしてもイランのモスクとは“熱量”の違いを感じてしまう。

サッカーを観戦したときも、ハーフタイムになった瞬間にスピーカーからアザーンが。何人かはスタジアムの廊下で礼拝していた。



そして今回、あえてイスラムのラマダン(断食)の時期に合わせてイランに入国した。日が出てから沈むまで食べ物も水も口にしてはいけない。人によっては唾液すら飲み込まないらしい。そんな面白そうなものこちらも挑戦してみたいではないか。時期が合わなければ体験できないんだから、体験できるなら体験すべき、である。

というわけで、ラマダンの最後の一週間ではあったが、自分も自主的にラマダンに参加した。想像どおりなかなか大変。なんせ日中は何も口にできないので夜明け前にもっそり起き出し、もそもそと前日に買ったパンなど頬張ったりする。ペットボトルの水も飲み干す。今年のラマダンはまだまだ暑い時期であったので、寝過ごして水を飲み損ねると一日大変なことになる。そのドキドキ感がまたたまらなかったりする。

考えてみると、人間だからこそ、食欲という生物の根源的な欲求を自らの手でコントロールすることができるのである。ラマダンというのは、人が人という気高い存在であることを再確認するための崇高な行為なのではないだろうか。

などと一人酔いながら町を歩くと、ショックな光景に出くわした。ラマダン中、ほとんどの飲食店は日中は店を閉ざしている。だが、中にはカーテンを閉め、その向こうで営業している店があるのだった。カーテンの裏で白昼堂々飯を頬張りジュースを口に運ぶ人々。イランですら純然たるイスラムではないのか。そんな景色を、喉がカラッカラの気高い『ヒト』である自分は、
「何をむさぼるか、この畜生が!!!」
と凝視してしまうのであった。

親切な家族が家に泊めてくれた。休日前夜の木曜日(こちらでは金曜日が休日)、一族総出の夜の散歩に参加させてくれた。これがラマダンの過ごし方だ!とばかりに、夕食をご馳走になった後、すかさずメロンで一息、ドライブをしてお茶をたしなみ路上で売ってる焼きとうもろこしをパクリ。ラマダンの夜は眠らない。深夜2時過ぎに床に就くと、案の定寝過ごしてしまった。
「ああ、日が沈むまで何も口にできないのか……」
それはそれで仕方なしと、その家族に挨拶に行くとなにやら調理中であった。朝飯を食べていけと言う。異教徒の自分のためにわざわざ作ってくれているのか!それは忍びない。
「自分もラマダンやってるから朝食は要らない」
そう伝えると、ポカーンとされた。とてもとてもポカーンとされた。とにかく食ってけ!ごり押しされ食卓につく。大量の料理がずらりと並んでいる。自分一人のために作ってくれたわけではなさそうだった。一族全員、日が昇ろうがしっかり朝食は採るのである(唯一、一家のおばあちゃんだけはその席を離れていたが)。イラン人と共に頬張りながら、
「そりゃそうかもなぁ……」
と思った。


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