しもばの放浪日記

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変わりゆく国
タイ
↓04.16
ラオス
↓04.30
中国


メコン川を渡ってラオスに入国した。



タイ側からラオスを眺めたときはなんだか妙な感じだった。対岸に見えるその地が別の国だというのは、日本人の感覚からはいまいちピンと来ないものがある。その気にさえなれば泳いで渡れてしまうくらいの距離なのである。

ラオスでは、ちっぽけな村で数日を過ごした。この村には、ボートでしか行くことができない。近郊にある町からボートで1時間ほど、それしか交通機関が無いのである。もちろん、車なんて走っていない。道では、子供やニワトリが走り回ったり、大人や犬がウダウダしてたりする。夜の9時になると電気が消えるこの村で、ハンモックに揺られ、川を眺めながらまったりと過ごした。



そして、中国。一年半ぶりの中国である。

この国はやっぱり面白い。理由のひとつはやはり『漢字』である。言葉が話せなくても、文字を見れば意味が解せるというのは、想像以上に楽しいのである。もちろん、『大酒店』が「ホテル」、『汽車』が「バス」、『火車』が「電車」など、日本との違いに意表を突かれることもある。だが、そんなものは覚えてしまえばどうってことないのだ。たとえば食事を食べに行ったとき。文字を見てなんとなく料理を想像、そして注文。来たものを見て意味を理解する。『土豆』と書いてあって、なんだろうと思ったら「じゃがいも」であった。『西紅柿』で「トマト」、なるほどである。こうやって少しずつこの国に解けてゆく。『西紅柿鶏蛋湯』だったら「トマトと卵のスープ」、てな具合である。


歯医者の看板。

それにしても驚いたのは、一年半前に比べて物価がかなり上昇していることである。前回2〜3元くらいで食べていた小籠包が、今回4〜5元くらいになっていて、初めはボラれているのかと思った。だが、どうやらこれが最近の相場のようなのだ。と言っても70円くらいなので安いには違いないのだが……。まあ、こういうところからも、変化の過程にある中国の姿が見て取れるというものである。

雲南省にある「麗江」という町に行った。世界遺産にも認定された、古い町並みが残っているところだ。ガイドブックの類を持っていないので、他の町に置いてあった15年前(!)の「地球の歩き方」を読むと、こんなふうに書いてあった。

『こんなところに町があるのかと思わせてくれるようなところ』

ラオスの村のような、とまでは言わないけれど、それなりに静かな町並みを期待して麗江に向かった。もちろん、ある程度の観光地化は覚悟していたが……。

たどり着いてみて驚愕した。町の入り口には巨大な水車、江沢民の書いた「世界遺産 麗江古城」の文字、そして圧倒的人数で押し寄せる中国人旅行者たち。まるでテーマパークである。夜になると、カフェ通りにはクラブミュージックが大音量で流れ、民族衣装を着た従業員が踊りまくる。ディズニーランドで言うところのミッキーやらに相当するものと思われる。ただ一言、「唖然」である。



こういう光景を目の当たりにすると、改めて考えてしまう。「残すべき場所」としての『世界遺産』という肩書きが、多くの観光客を呼び、その場所が変化していく。まあ、自分も観光客であるからには偉そうなことを言える立場ではないのだが。

例えば、3年ぶりにアンコールワットのあるシェムリアップを訪ねたときのこと。ずいぶんと高級ホテルの数が増えていたのに驚かされた。前回足を運んだ屋台街に行こうとしたら、一帯にあった屋台は全て姿を消していた。宿のオーナーに尋ねたところ、「衛生面の問題などで撤廃された」とのことだった。そのときは、自分の思い出と異なる、変化していく町の姿に戸惑いを覚えたものだった。

だが、わからないのである。そこに住んでいる人々は、観光客が多く訪れ、変化し、発展していくことに喜びを感じているのかもしれない。たかが一介の旅行者にそれを嘆く資格があるものだろうか。自分たちは便利な生活を享受していながら、外の世界には変わらないでいてほしい、というのもおこがましい気がする。それに、どんなに嘆いたところで、旅行者自身も破壊する側の人間に他ならないのである。

ともあれ、中国と言う国は確実に豊かになってきているのかもしれない。中国人旅行者の多さが、それを証明している。どこに行っても、それこそ老若男女問わず旅行者がいるのだ。チャリダーやら、女の子の一人旅バックパッカーなんかもいたりする。かと思えば、町から少し離れただけで、手作業で田植えをしたり牛を使って畑を耕す姿が見られたりするのだ。

実は、地震の翌日に成都に着いた。地震の瞬間は震源地から400kmくらいの地点にいたのだが、バスで未舗装の道を走っている最中だったので全く (おそらく乗客誰一人) 気付かなかった。

成都でも、いまだに路上にテントを張って暮らしている人たちが数多くいる。建物に住めなくなった人もいれば、家にいるのは怖いので外で寝ているという人もいるようだ。たしかに、ここで地震に怯えるよりは外で寝たほうが……と思えるような建物もたくさんあるのが事実なのである。

先日、成都の駅構外を歩いていたときのこと。突然あたりが騒然とし始め、大勢の人々が必死の形相で駅方面から走り寄せてきた。中国語でなにやら叫んでいるがもちろんわからない。得体のしれない恐怖に襲われ、皆と同じ方向に走って逃げた。

しばらくすると落ち着いた。どうやら自分は気付かなかったが、余震があったらしいのだ。皆、建物の下敷きになる恐怖に怯え、建物の無い方向に逃げてきたというわけだ。人々がパニックに陥る瞬間を垣間見たような気がして、しばらくの間、胸の動悸が止まらなかった。何より恐ろしかったのは、自分自身も確かにその一部であったことだった。
シャングリラに雪が降る(前編)
(景洪→大理→麗江→香格里拉→郷城→理塘→康定→成都)

時間はさかのぼる。5月10日。



雪が降ってきた。ふた冬を越していない自分としては実に2年以上ぶりに見る雪である。

中国雲南省の町、香格里拉(シャングリラ)を発ったのはその日の朝のことだった。ジェームズ・ヒルトンの『失われた地平線』という小説に出てくる理想郷『シャングリラ』はここであると地元政府が主張したことからこの町の名がついた。などと、いかにも中国的なお話ではあるが、言ったもん勝ちなのが彼らの流儀。現に、こうしてまんまと踊らされている人間がいる以上、仕方ないのである。

ここは雲南省にあるチベット人の町。3月のチベット騒乱で外国人はチベット自治区に入れなくなってしまった。仕方がないのでここから北上して四川省に入り、四川省内のチベット文化圏を旅することにしたのだ。ルート的にはチベット自治区と程近い国境(と言ってしまって問題ないだろう)付近を進むことになるため、警備も厳重。雲南から四川の境を越えるときには全ての乗客がバスから降ろされ、身分証のチェックを受けた。

シャングリラから郷城という町までは問題なく行けた。自分としてはここから稲城という町を目指したかった。ここは人によると『リアル・シャングリラ』と呼ばれている町。なんだかアホらしい気もするが、何がどう『リアル』なのか気になるではないか。

同じバスには他に3人の外国人が乗っていた。イスラエル人の男、中国語ペラペラ韓国人女、香港出身のオランダ人女(当然中国語OK)、という面子。これにチベタンの坊さんが加わって稲城の町を目指すことになった。

郷城から稲城にはバスがないというので、5人でタクシーをチャーターすることに。だが、まず町を出るところで検問があった。外国人がこの先を通るには町の警察署で許可をもらう必要があるとのことである。

中国語が話せる二人のおかげで通行許可は下りた。公安のお偉いさんに電話してもらい、稲城にも行けるかもどうか確認してもらった。問題なしということだ。
「ついでにラサにも電話して確認してくれ」
などと冗談をふっかけながらも、晴れて再出発。が、おかげでずいぶんと時間を食ってしまった。早くもあたりは薄暗くなりはじめている。基本的に標高が3000mを超えるチベット文化圏。ここから先は4000m級の峠をひた走ることになるのだ。眼前に見える上り坂には雲がかかっている。気温もグッと下がってきた。そしてあたりが完全に闇に覆われた頃、ヘッドライトの光の中に雪がちらつき始めたのだ。

夜の雪の峠道、しかも中国的非安全運転である。稲城の町が近づくのが長く感じられた。それでもようやく、町の入り口までたどり着いた!そう思ったとき、またしても公安の検問にぶつかってしまった。

パトカーの回転灯が降りしきる雪を照らし出す。何も悪いことはしていない(はず)なのに、自らの犯した罪をひた隠しているかのような気分にさせられた。結果、散々待たされたあげく、
「危険なので外国人は町に入れない」
の一点張り。前の町で確認してもらったと伝え、きっちり電話番号まで控えておいた前述の警察署のお偉いさんに電話してもらうも結果は変わらず。やれやれ、彼ら末端の公安諸君は横の連携が全く取れていないのだ。

“何処へも何処までも” 行けるというものでもないのだ。
シャングリラの中埋もれた、思い出話。

結局、その日の夜は検問の手前のちっちゃな町で一泊しなければならなかった。ちょうどこの町が稲城と、別の方向にある理塘という町との分岐点になっている。稲城には入れないので、翌朝その理塘の町を目指すことにした。イスラエル人と韓国人は雪道を進むのが不安なのでもう一泊この町に残るとのこと。幸い、ちょうど理塘方面に行くチベタン坊さんの一行がこの宿に泊まっており、車に二人分の空きがあるという。香港出身オランダ人と共に、同乗させてもらうことで話をつけてもらった。全く、言葉が話せるというのは素晴らしいことである。大人数だったがためにヘラヘラ笑いながらハプニングを楽しんでいたが、きっと一人だったら途方に暮れまくりで泣きかけていたに違いないのだ。
シャングリラに雪が降る(後編)
翌朝、車窓から見た景色は美しかった。まだ残る雪の中に、チベット人の村落や放牧用のテントが見える。タルチョと呼ばれる5色旗が白に映える。



たどり着いた理塘の町。どうしてもこの町に滞在したかった自分は、一人車から降ろしてもらった。この町は『標高4000mの盆地』、日本人的感覚では全く理解しがたいところである。空気もキリッと引き締まり、周囲はグルリと雪山に囲まれていている。

前述した警察署のお偉いさんの話では、この町もやはり「危険」であるということだった。3月の騒乱があった際、チベット住民が多い他の地域にも飛び火した。そのためにこの町も警戒区域であるらしかった。町では赤字に黄の文字で書かれた
「共産党なくして新中国なし」
「反対分裂 維護統一 汎固団結」
などと空恐ろしいスローガンの旗があちこちで目に入る。

にもかかわらず(だからこそ、という可能性もあるが)、町の雰囲気はいたって静かでおだやかなものだった。「ニーハオ」声を掛けると笑顔で返事を返してくれる。カメラを向けると「ハロー、ハロー」と子供たちが集まってくる。踊りを披露してくれた女の子もいた。



もっとも、中国政府の立場になって考えれば(感情的には納得いかなくとも)この時期に警戒を重ねるのは当然のことである、というのはもちろん理解できる。検問を行っていた公安にしたって、与えられた情報の中で、与えられた職務を全うしているに過ぎない訳だし、その内の何割かは、ほんとにこっちの身を案じてくれているということだってないとも言い切れないのだ。だが、こんなにものどかでまったりした情景を見せられてしまうと、権力側が力めば力むほど、どうにも拍子抜けしてしまう。

馬を放牧している農家の裏でボーっと景色を眺めていたら、おっちゃんが小屋に招いてお茶をご馳走してくれた。筆談を交わすと、こんな言葉を投げかけてくれた。
“到中国旅遊 深表歓迎”

町の外れには、いかにもチベット風の寺院が聳えていた。遠くから見ると非常に壮大だが、近づくと寺の中から工事の機械音が聞こえてくる。外側は荘厳、中身は空っぽ。面子を重んじる中国らしい建築方法である。と同時に、香格里拉(シャングリラ)の町で出会った旅行者の話が頭をよぎった。

シャングリラにも、同じように荘厳な寺院がある。だが、何年か前にはその周辺はまるで廃墟のようだったという。寺が立派になってゆくのに合わせて、もともと農家ばかりだったところに『シャングリラ古城』が新たに建てられはじめた。町にはチベット風の彩りの建物群が増え、次第に観光客も増えていった……。

この理塘の町に建てられている寺院も、信仰としての目的はもちろんだが、それ以外にも政治的、観光的、その他様々な背景があるのだろう。そんなことを考えながら門をくぐると、一人のラマ僧の姿が目に入った。だだっ広い敷地にぽつんとたたずみ、工事の音が鳴り響く寺を見上げていた。

一瞬ハッとした。今になって思えば、自ら信仰する宗教の寺が新たに建つ、そのことが信仰者にとって嬉しくないはずがないに違いない。あるいは、変化する景色に戸惑いを覚えている自分の気持ちをその姿に投影してしまっただけかもしれない。だが、その光景には、何故だか儚げなものが含まれているような気がしてならなかった。

その眼差しは、強大な流れに揺らぐ信仰そのものを見つめているようにも思えたのだった。

聖火リレー in ウルムチ
(成都‐宝鶏‐敦煌‐ウルムチ‐クチャ‐カシュガル)

6月17日。

このような状況ではいくら待ってもチベットは開くまい、また、開いたとしても相当に制約があるに違いない。そう思い、苦渋の判断で新彊ウイグル自治区へ抜けることにした。ひとまずの目的はウルムチで行われる『聖火リレー』であったのだが……。

前日からものものしい雰囲気だった。夜、聖火リレーが行われる予定のメインロードを歩いていると、“排 爆”と書かれたパトカーが停まっている。なるほど、爆弾処理班だ。数人の警官が探知機を使用して道路脇の植え込みを調べている。警察犬も動員されている。この犬がまた言うことを聞かない。傍らの警官の持っていた警棒に噛みついたまま離れないので、警官にものすごく怒られていた。すぐ目の前でこのような光景を繰り広げられると怖ろしくて仕方ないのである。

聖火リレー当日。なんと外出禁止令が出された。朝7時から昼2時まで、宿から出てはいけないというのだ。しかし、そう言われるとなおさらこの目で聖火を見てやろうという気になってしまう。こちとらそのためにわざわざウルムチくんだりまでやって来たのだ。

この宿は、聖火リレーが行われる大通りのすぐ近くに位置する。窓から通りを眺めることができるほどの距離なのだ。窓の下を覗いてみると、聖火リレー鑑賞の動員待ちの人々が列を成しているのが見えた。そんな姿を見ていたら、ますます外に出たくてたまらなくなった。試しに宿の兄ちゃんに
「朝飯を食いに行く」
と言ってみると、苦笑いしながら出してくれた。そのまま大通りに出ようとしたら今度は警官に止められた。
「吃飯(チーファン)、吃飯」
カタコトの中国語で示すと
「裏から回れ」
なんなく突破に成功。なんのことはない、楽勝で外に出られたではないか。

だが、そこまでであった。裏道をひたすら歩いてそこから大通りに出る道を探したが、どの路地も封鎖され、聖火リレー待ちの人たちで埋め尽くされている。こっそり紛れ込んでやろうと思ったがそうもいかない。みんなオリンピックのスポンサー名の描かれたTシャツや帽子をまとい、団体ごとに揃いのいでたちなのである。見ると、一般の地元民までが、どこから入ったらいいのかわからず、中国国旗やオリンピック旗を手に、右往左往しているようであった。

これだったらまだ宿の窓から見た方がマシだ……。帰途に就くことにした。が、さっき通ったばかりの路地まできっちり封鎖されてしまっていた。宿は路地に面しているので、歩いて30秒とかからない。現に、検問のロープのすぐ向こうに宿の看板が見えるのである。何食わぬ顔でくぐろうとすると、やはり押し返されてしまった。ちょっと待ってくれ!宿に戻るだけだ!ほら見ろよ、すぐそこにあるだろ!言っても振り返ろうともしない。「午後まで入れない」その一点張りである。道をふさぐ軍人さんにも腹が立ったが、それ以上に頭にきたのは、迷彩柄のTシャツを着たいわゆる“模範的”人民の代表と思われる人たち。『外国人担当』的なことが書かれたプレートを胸に付け、そのくせ「だめだ、だめだ!」を繰り返すだけ。向こうでコソコソと「リーベン、リーベン(日本人だ)」と囁いているのが聞こえてくる。自分の頭では何も考えず、上からの通達をただひたすら盲目的に全うするのみ。こういう連中が最も癪に障るのである。すると、運よく向こうから話の分かりそうな顔した公安のおっちゃんが歩いてきた。すかさず声を掛け、
「そこの宿に泊ってるから連れてって!」

ようやく宿に戻ってくることができた。が、宿の雰囲気がなんだかおかしい。妙にどんよりじめじめしているのだ。この違和感は一体……。見渡してみて、はたと気付いた。こんなとき映画でも見て時間を潰してるはずの欧米人がテレビルームに一人もいない。インターネット用に設置されているパソコンも起動していない。

『停電』しているのである。奴らなんとしてでも聖火を死守するつもりらしい。あったまきた。すべての外国人は聖火を妨害工作する危険分子だとでもいうのか。もちろん、この宿だけではなく付近の建物すべて同様なのだろうが……。

結局、窓から聖火リレーを見守る以外に成すべきことはなかった。それさえ過ぎれば我々は解放されるのだ。クーラーも点かない蒸し暑い部屋から外を眺める。炎天下の下、揃いのTシャツを着た人々が大声を張り上げ、旗を振る予行練習をしているのが見える。段々と分かってきたことだが、結局この聖火リレーを見物することができるのは、政府の施設で働いてる人だとか小中学校の生徒たちだとかのみで、それ以外ではたとえ地元の住民ですら参加できないということらしかった。そして、動員された人たちには“コカコーラ”だとか名だたる企業がきっちりスポンサーグッズを配っている。皆、“コカコーラ”のTシャツを着て、「加油!加油!」と叫びながら、中国旗を振りまくるわけなのである。いやはや、どれだけの広告効果があるかは知らないが、中国共産党政府とアメリカ資本主義(コカコーラ)ががっちりタッグを組むとこんなすさまじいことが起こるのかと、逆に感動すら覚えてしまった。

ちらっと聖火が通り過ぎるのが窓からも確認できた。そうして、我々の聖火リレーは終わった。直に電気が戻り、外出禁止令も解かれた。

“We are free !!!”
他の宿泊客と共に、喜びを分かち合ったのであった。


閉ざされた世界から覗いた聖火リレー。

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