しもばの放浪日記

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万里の長城
まさか実現するとは思わなかった。

きっかけは前日。フェリーで会った友人と酒を飲んでいたときのことだ。はじめはお互い冗談半分だった。しかし、次第に後には退けない空気になっていった。酒の力というのは恐ろしいものだ。そう、テーマは、
「万里の長城で野宿」

デイバッグに寝袋を詰め込み、目指したのは司馬台長城というところ。一般的に有名な長城よりも郊外にあるため、観光客がそれほど多くないのだ。また、西にある金山嶺長城まで長城を歩いて行けるのも魅力の一つだ。

昼過ぎに長城にたどり着き、ひたすら歩く。ただ目で見るよりもやはり自分の足で歩いた方が、よりすごさが実感できる。歩くだけでもしんどいのに、ここにこんなものを造った人々の苦労といったら計り知れないものがある。

日没が近づき、ボーっと夕日を眺めていると、向こうからセキュリティーのおばちゃんがやってきた。最も恐れていた事態だ。やばい!外に追い出されるか!と思いきや、おばちゃん曰く、ここから先に行くにはチケット代が余分にかかるので払わないなら少し戻りなさい、とのこと。渋々戻ろうとすると、後ろから一言。
「今夜は月と星が綺麗だよ」
えっ!?泊まることに関してはおとがめなし!?

途中で目星をつけていた宿(かつての見張り台)にて宿営。おばちゃんの言葉に反して月は見えず。星もいまいち。仕方が無いので酒を飲み飲み、友人のプレイヤーで音楽を聴く。万里の長城に響き渡る「いとしのエリー」。ミスマッチすぎて素敵すぎる。題して“サザンナイト”などとくだらないことを言いながら馬鹿みたいに笑う。影絵なんかもやってみた。



いささか風通しの良すぎる宿(見張り台)のため、寒さに震えながら就寝。空が白み始めたころ目覚めるが、もやのため朝日は拝めなさそうだ。やむなく出発。しばらく歩いてふと振り返ると、長城越しにあきらめていたはずの真っ赤な朝日が出ていた。思わず腰を下ろし、呆然と眺める。その先は、振り返るたびに朝日を背にした長城の姿。朝もやにかすんだ、誰ひとりいない万里の長城。あまりにも贅沢な早朝トレッキングとなったのだった。

自己ちゅートレイン
北京には予定以上の滞在となった。すべて日本で中国ビザを取り逃したせいだ。こっちで申請したら1週間も足止めを喰らってしまったのだ。

ようやく別の街に旅立てるようになったのだが、移動中の電車ではストレスが溜まることが多い。大きい荷物を棚に乗せようとしても誰も手伝おうとしないし、席に座れなくて立ってる人がたくさん居ても3席くらい使って横になっている奴。赤ん坊を重そうに抱えている人が来ても席を譲ろうという気配が無い。おかげで1日に2度も席を譲ってしまった。ジャパニーズ自己犠牲の精神を見たか!いつまで続くかわからないけど…。

いやはや、ほんとに儒教の生まれた国かいな。日本ほど、儒教の精神が人々に浸透している国は無いと実感。環境は人が作り上げるものだけど、やはり環境が人を作ることもあるのだ。もちろん皆がそうとは言わないけれど、この国では少しくらい図々しくないとなかなかやって行けないようだ。

大同という町から北京に移動したときのこと。自分はしっかりと指定席の切符を買っていた。忘れもしない、10号車の75番の席だ。人込みを掻き分け列車に乗り込むと、チンピラ風の男がその席に座っているではないか。身振り手振りで、自分の席だと主張すると、何やら喚き立ててきた。おおかた、
「んなもん知るか!いてまうどボケ!!」
とでも叫んでいるのだろう。だが、言葉がわからないので怖くもなんとも無い。自分も日本語で
「ふざけんな!チケット見せてみろや!おら早くどけよ!!」
と応酬。こちらとしても言葉が通じないのでありがたい。散々押し問答になったあげく、最後は自分+車掌5人+周りの冷たい視線VSチンピラで15分ほど戦った。結果…なんと勝てず。向こうはずっと、
「僕が先に座ったんだもん。この席僕んだ」
というようなことを言っていた。ただの馬鹿、そしてガキだ。アメリカ周りで旅していたら思わずFuck!と叫んでいたことだろう。

結局、食堂車の1席をあてがわれた。怒りが治まらないでいると、隣の席の黒スーツにボウズのヤクザっぽい兄ちゃんがタバコを1本くれた(自分でタバコは購入しないけど、もらいタバコは断らないのがこの旅の裏ルール。旅においてのタバコはコミュニケーションツールのひとつだ)。前の席に座った会社員のおっさんも、英語で話し掛けてくれる。最終的には楽しい移動となった。"Everything gonna be alright"か。


大同で出会った美大生たち。似顔絵を描いてもらった。


泰安という町のローラースケート場。床石が陰陽マーク。
少林寺修行篇(前編)
夕方にたどり着いた少林寺門前。ウロウロしているとおっちゃんが話し掛けてきた。なにやら「カンフー習いたいのか?」的なことを言っている。何の気なしに話を合わせていると、どこぞに電話を掛け始め、5分と経たないうちに、微妙な英語を操る謎のおばちゃんが現れた。名を聞くと『Mrs.リー』と名乗る。ううむ、なんとも怪しげな展開ではないか。

結局翌朝、武術館の門を叩くこととなった。実際に学校を見せてもらって、そこそこの規模だったので一安心したのだ。それに、8日間で飯三食と宿まで付いて500元(約7500円)というのはのは悪くない値段だったし、なんとここの生徒になっていれば少林寺の入場料100元がタダになるという。ということは1日50元。乗った!という訳である。

ちょうど毎日、移動→宿探し→町歩き→移動→宿探し…の連続でやや疲れ気味だったというのもある。武術学校に体験入学。ちょっぴり興味はあったのだ。でもなんであの門前のおっちゃんはカンフーやりたげだと思ったんだろう。考えた末、
「あっ、ボウズだからだ!」
という結論に至る。



初日。ひさびさに体を動かし、運動不足を大いに実感させられる。旅をしてると毎日結構な距離を歩くもんだから足腰が鍛えられてると錯覚しがちなのだが、いやはや勘違いも甚だしい。なんせストレッチからしてすでにバテ気味なのだ…。それに、もともと運動は大の苦手。足を壁に立て掛けヒーヒー言いながら伸ばす。

初日は個人レッスンだった。短期の体験学習なので、ひたすら型の練習だ。とはいえ、やはり武道の基本の動きは型にあり。しゃがみこんだ状態から立ち上がったりの反復練習。つまりはスクワットの連続。支給された全身青ジャージを来てぶざまに動く様はほとんどコントだ。ちなみにこの青ジャージ(ほんとは赤黒ジャージが良かったのだがサイズが合わなかった)、お値段80元。この時点で少林寺の入場料無料はほぼチャラになっていることに気付く。

宿舎に戻り、皆で夕食。この日の夜は町中が停電だった。何だかわからない鍋の中身を、暗がりの中ひたすら掻きこんだ。体を動かした後なのでべらぼうに旨い。疲れた体に安堵感が一気に広がる。夜空に浮かんだ半月が綺麗だった。こうして少林寺での一日目が終わりを告げたのであった。



…となる予定だった。突然響き渡るベルの音。
「え!?なに?なに?」
とうろたえてる自分を尻目に、皆ゾロゾロと門の外へ出て行くではないか。なんと、夜の授業の始まりだった。皆が並んでいる前で、うろ覚えでボロボロでヘロヘロな型を大いに披露させられる。もはや羞恥プレイ以外の何者でもない。

一日中動いて全身ヘトヘト。この日は床に就くなりグッスリ眠った。が、朝6時には、またしてもベルの音が鳴り響くのであった。
少林寺修行篇(後編)
次の日はさぞかし、筋肉痛であった。

6時に起床し、ランニング、腕立て、スクワット、逆立ちと続く…ひぃー。それでも、一日の中で唯一付いていけるのはこの朝の時間だけだ。とは言っても逆立ちとか、みんなそんなに頭に血が上って大丈夫?というくらい長時間続く。自分はもちろん早々にリタイヤだ。山の向こうから朝日が昇ると、宿舎に戻って朝食となる。

学校は低学年クラス(おそらく中学生くらい)と高学年クラス(おそらく高校生くらい)の2つに分かれている。当然、自分は低学年クラスに参加。が、例えばマット運動の授業なんかでも、みんな手を付かない側転とか前転とか軽々と決める。ひぃー。そんなときは結局一人で型の練習だ。

高学年クラスは一日中鍛錬の積み重ねだが、低学年クラスは普通の勉学の授業もあるらしい。そのときはまた個人レッスン。低学年クラスが朝練が無いときは、高学年クラスのランニングに参加するときもあった。このくらいなら付いていけるぜー。と、ふと足元を見ると、足首にグルグルと重りを巻きつけてる奴がいたりする。ひぃー。


土曜日の午後は湖で洗濯。

ようやく体から筋肉痛が消え始めたころ、8日間の日程が終わった。正直、こんな短期間体験したところで、何も変わるってこともないだろう。それが1ヶ月になったところで同じかもしれない。でも、皆で走ったり、洗濯したり、ワイワイ風呂に入ったりしたことは、懐かしい学生生活をちょっぴり再体験させってもらっているようで、とても楽しかった。

こんなふうに、少年たちが一日中武道に明け暮れている地があるのだ。夕日に染まるその光景を見ていると、なんだか不思議と現実感がなく、1枚の絵を見ているような感覚にとらわれたのだった。

グッバイ、チャイナ


洗剤を買いに町へ出た。洗面器やバケツを売っている店を見つけたので、手に『洗濯粉』と書いて聞いてみると、店のおばちゃんは向こうの方を指差し、中国語で何やら言っている。『電話』という単語だけ聞き取れた。その方向へ歩くと、言葉とおり電話を置いてある店を発見。晴れて洗剤をゲット!手に持ち意気揚々と引き揚げる姿を見て、さっきのおばちゃんが笑いかけてくれる。うーん、楽しい!洗剤ひとつ買うだけで、ロールプレイングゲームで重要なアイテムを手に入れたかのような感覚だ。

最近になってようやく、旅のリズムと自分の波長が合ってきた気がする。天津−北京−大同−北京−泰安−上海−蘇州−少林寺−洛陽−武漢−桂林と、中国に来て早一ヶ月。夜の列車で南宇、そしてベトナムへと向かう。名残惜しいがビザが切れるので仕方ない。

中国行きのフェリーに乗ったときのある夜、中国人のおばちゃんを中心に色々な会話をした。そのおばちゃんは日本で司法通訳をしていて、人生の半分近くを日本で過ごしているので日本語もペラペラ。
「中国人は面子が大事だからねー」
なんて自国のことを客観的に語っていて、とても面白かった。

その中でショックだったのは、日本で働いていた中国人の女の子の、
「親や友達に電話するたびに、『大丈夫?日本人は怖くないの?』と聞かれる」
という言葉だった。そんなことないと否定しても、なかなか信じてもらえないのだという。

1ヶ月もいれば、さすがに旅行者中国語くらいなら使えるようになってくる。いったん溶け合うと、チャイニーズはとてもフレンドリーだ。売店の娘が
「またこの町に来てね」
とか言ってくれたり、飯を食うときにたまたま向かいに座っただけのおっちゃんが、住所まで手渡し、
「次に来るときは遊びに来なさい」
なんて言ってくれる。社交辞令かもしれないけれど、一人きりで旅する身にはそういう些細な言葉の一つ一つが胸に染み入るのだ。

大同で修学旅行中の美大生たちに知り合い、彼らが住む武漢に会いに行ったときなど、町を案内してくれた上に実家にまで招待され、お婆ちゃんの手料理をご馳走になった。自分だったら知り合ったばかりの外国人にここまでしてあげられるだろうか。

電車での移動も比較的慣れてきた。トラブルが続いていた頃は、北京や上海といった大都会の影響で混雑していたせいもあったのかもしれない。こないだなど、車掌が通り掛りに
「Come here.」
と言って車掌室に呼び出すので、怒られたり尋問されたりするのかと思いきや、ただ単に英語が趣味のおっさんで外国人と話したいだけだったようだ。ブロークン・イングリッシュ&チャイニーズと筆談で1時間くらい談笑。なんのこっちゃ。

フェリーでの意見のひとつとして、
「中国人も日本人を知らないけど、同じくらい日本人も中国人を知らないからねー」
というものがあった。こうやってお互いがお互いの国を行き来して、それぞれコミュニケーションを取ることが、誤解を解くひとつの鍵なのではないか、と。確かに言えるかもしれない。
「そのためにはあなたたちも中国語を学ばなければ駄目よ」
フェリーで会ったおばちゃん談。いやごもっとも。

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